初期中山道 下諏訪→贄川

2024年9月に中山道の下諏訪宿と桜沢の間の別ルートである初期中山道を歩きました。下諏訪宿から出発し、三沢峠 (小野峠) と牛首峠を超え、桜沢で中山道と合流して贄川宿まで歩くという工程で、途中 (街道とは関係ありませんが) 桑崎集落跡にも寄り道して廃校跡などを見学したり、以前中山道を歩いた際 (中山道六十九次 (7/16) 下諏訪→奈良井) には寄れなかった桜沢の原道や贄川関所にも寄ったので、本記事で併せて紹介したいと思います。

初期中山道とは、中山道が完成した慶長6年 (1601年) から元和元年 (1615年) 頃までのルートで、その後は塩尻峠を経由するルートに変更されたことから、元々のルートが "初期" 中山道になりました。

塩嶺王城観光開発協議会制作パンフレット「初期中山道を歩く」より抜粋

初期中山道は直線的なルートではありますが、三沢峠と牛首峠の2つの峠を超える必要があります。対して新しいルートは遠回りにはなるものの超える峠は塩尻峠のみとなっており、負担が軽減されているのが特徴です。

概要

記録

下諏訪駅 ▶︎ 三沢峠

新宿駅23時58分発の登山客向け夜行列車である特急アルプス白馬行に乗車、翌朝5時3分に松本駅に到着し下車しました。ここから普通列車で少し引き返し下諏訪駅へと向かいます。

下諏訪駅に6時20分に到着、これで活動時間をたっぷり確保することに成功しました。

中山道歩きで下諏訪駅にお世話になるのはこれで3回目です (1回目→中山道六十九次 (6/16) 芦田→下諏訪、2回目→中山道六十九次 (7/16) 下諏訪→奈良井)。甲州街道でお世話になることもあるかもしれません。

駅を出て直進し、突き当たりを左折、旧中山道の道筋に入っていきます。

しばらく国道20号を歩いたあと、直進する脇道へと入っていきます。

看板からこの脇道が旧中山道であることがわかります。

前回の中山道歩きの際は未明に歩き始めたためスキップしてしまった魁塚に立ち寄りました。

「史跡 魁塚 (哀楽塚)」と書かれた説明板がありました。相楽総三という方とその同志が新政府に裏切られ汚名を着せられ処刑されてしまった痛ましい出来事を偲んでこの塚が建立されたそうです。

春日大社の春宮の参道と交差、大きな石灯籠に加えて国道側に鳥居が見えました。

下諏訪宿の案内板もありました。宿内周辺の案内なので、塩尻・小野方面の案内はありません。

木の柱と縄に囲まれた道祖神の石碑がありました。同様のスタイルのものを木落し坂付近でも見かけたことを思い出しました。

この細い路地にお邪魔します。

前回は暗さで気づかずこの路地ではなく舗装路に行ってしまいましたが、今回はこの路地を通って土堤経由の原道を辿ってみることにしました。

砥川の土堤に上りました。ここからは国道に架かる富士見橋で迂回します。

振り返ると下諏訪宿方面へ歩く方向けの案内板もありました。

富士見橋を渡り、再び細い路地に入っていきます。ここは前回も通りました。

この地点は舗装路にしては実に狭いです。

旧中仙道と書かれた道標がありました。西大路を行き交う車やバイク等に旧中山道の存在を伝えています。

小さな川を小さな橋で渡ります。

渡った先にピカピカの中山道の石碑がありました。

ここが旧中山道と初期中山道の分岐点に近い場所になります。目印らしいものは特にないので、ぼーっと歩いていると通り過ぎてしまいそうです。住所は岡谷市長地御所2丁目17付近になります。

左折後、すぐに右折します。すると古い道筋らしいなだらかなカーブが始まります。

少し不安になりつつも歩を進めていきます。

舗装路から分岐するこの草道に入っていきます。国土地理院の地図には載っている道ですが Google マップではここには道がないことになっていて少し不安になりつつ、突撃していきます。住所は岡谷市長地柴宮3丁目9付近です。

ドブが流れていて足元に気をつけながら草道を進んでいきます。

狭いですが、歩きやすいように保守されているように見えます。

一旦舗装路に出ましたが、延長線上には再び草道が伸びています。写真左手に進んでいきます。

草道の先に住宅設備の会社の事務所が見えてきました。

すみません、少し失礼して駐車場を横切らせてください・・・。

道路とクロスした先になかなか雰囲気のある道筋が伸びています。ここを歩いていきます。

岡谷市道30号を跨ぎ、さらに先へと進んでいきます。

まもなく横河川というところで、ごく短い急坂兼急カーブがありました。軸距の長い車や車高の低い車は豪快に擦ってしまいそうです。

県道14号に出て左折し横河川を渡っていきます。初期中山道の道筋はしばらくこの県道と重なります。

横河川橋で横河川を渡ります。

横河川は奥にうっすら見える筑摩山地の南端部を水源とし、諏訪湖を経由して天竜川となり太平洋に注いでいます。

県道は道幅も広く歩道も整備されています。程よくぐねぐねしている線形が街道らしさを感じさせます。

江戸から56里 (約219.9km) の小井川一里塚跡付近に到着しました。丸加印刷所の路地を挟んで北側の民家の庭先に青いトタンで覆われた石碑があり、これが一里塚の石碑らしいです。なぜこうなっているのか等詳しい事情は分かりません。Google ストリートビューを見ると2015年時点ではトタンはないものの、2017年にはトタンが付けられているのが確認できます。

小口薬師堂に到着しました。立派な鐘楼が街道脇に建っています。

天保14年 (1843年) に再建された美しいお堂が参道の奥に鎮座しています。ベンチもあったので参拝後ここでしばらく休憩しました。

「おやき」の看板。錆びついていてちょっと怖いです。

「おやき」の看板のある建物は高橋醸造という会社の醤油蔵になっていました。ぜひ醤油を買ってみたかったところですが、さすがにまだ開店前で残念 (現在時刻は朝7時22分)。

醤油醸造之図と書かれた絵が掲げられていました。大きな樽を使って職人さん総出で仕込んでいる様子が伝わってきます。

とても美しい建物が目に飛び込んできました。これは旧岡谷市役所庁舎だそうです。手前に立つ像は製糸会社を興したの尾澤福太郎翁で、この建物を寄贈したお方だそうです。

諏訪郡平野村道路元標がありました。明治・大正時代の道路整備の痕跡であるとともにかつての地名を今に伝える資料でもあります。しかし妙にピカピカに見えます。最近作り直したものでしょうか。

旧岡崎市役所庁舎の説明板がありました。岡崎市内で初の水栓トイレがここだとか。

旧岡崎市役所庁舎前の公園からは美しい庁舎全体をカメラのフレームに捉えることができました。庁舎前が交差点なので、車が一台も写らないタイミングを見計らってパシャリ。

旧庁舎前の公園には彫刻作品も展示されていました。そして右奥に写っている大きな建物が現在の岡崎市役所の庁舎になります。

現在の市役所の正面を横切り、岡谷駅方面に歩いていきます。

岡谷郵便局の前に「史跡 岡谷小学校下校ここに在りき」と彫られた石碑と標柱がありました。明治20年 (1887年) から昭和34年 (1959年) までここに小学校があったようです。

県道から照光寺の参道が伸びていました。真言宗智山派のお寺です。

本町1丁目交差点に到着しました。Y字路になっています。進行方向左手先に岡谷駅、県道14号および初期中山道の道筋は右手になります。

交差点には岡谷十五社神社の鳥居がありました。雰囲気に惹かれて参拝してみることにしました。

静かな境内の奥に大きな社殿がありました。

祭神が15神いるため十五社神社と呼ぶそうで、この地域に5つあるうちの1つとのことです。

成田山と書かれた石板があり、上へ伸びる参道には南無不動明王と書かれたたくさんの幟がはためいていました。ここは蓮華不動院というお寺のようです。

ここで県道を外れ、脇道に入っていきます。おや、なにやら案内標識が。

三沢の一里塚まで 1.2km、そして真ん中には初期中山道の記載を発見、岡谷まできてようやく初期中山道の文字に出会えました。岡谷駅起点/終点の前提で観光案内が整備されており、塩嶺天城観光開発協議会が作成した「初期中山道を歩く」という冊子 (以下「協議会ガイド」と呼ぶことにします) でも岡谷駅と桜沢の間を重点的に解説しています。

道端に古いタイプの郵便ポストが普通に立っていました。

民家の敷地内に石神、水神、山神の石碑と石祠がありました。

なにもなかったら迷ってしまいそうな交差点も案内板がしっかりフォローしてくれます。

オリジナルなデザインの初期中山道看板も道中何度かみかけました。

標柱の正面側は読めなくなっていますが、石碑を読むと「深澤驛阯碑」とあります。

深澤駅は古代東山道の駅の一つで、諸説ありつつもこのあたりにあったと推定されるとのことです。石碑自体は明治44年 (1911年) 製。

三澤熊野神社の鳥居があり奥に社殿がありました。

三澤熊野神社のご祭神とご由緒。創建不明。ご祭神はいざなきのみこと、ことさかのおみこと、はやたまのおのかみの三神。本殿は天保年中 (1644〜48年) に建てられ、改築を経て今に至るそうです。

参道脇には割と大きな供養塔が4基も並んでいました。手前から順に廿三夜 (にじゅうさんや)、庚申、第六天、庚申と読めます。

おっと車両通行止、しかし徒歩なら通行可能でした。

中央線の線路を跨いだところでちょうど岡谷駅を発車した松本行の電車がやってきました。

電車は塩嶺トンネルへと吸い込まれてきました。このトンネルができる前は中央線は塩尻峠を避けて辰野を経由していましたが、トンネル完成後そちらは支線になりこちらが本線になりました。

さくさんの石像が並んでいました。協議会ガイドによると、全部で25基あるそうで、特に馬頭観音が多いそうです。

こちらは御嶽社とのこと。見どころがたくさんあり、歴史ある街道であることを実感できます。

道標らしい石碑と案内板がありました。

うっすら文字があるのは分かりますが、はっきりとは読み取れません。

江戸から57里 (約223.9km) の三沢の一里塚に到着しました。両塚現存しているようですが、はっきりとわかるのはこちらの塚のみです。もう一つの塚は奥の少し下がったところにあるようです。

おかや歴史の道文化財めぐりと書かれた案内板がありました。この案内板では初期中山道のことを旧中山道と言っています。

一里塚碑も置かれていました。

少し上ったところから一里塚と岡谷市街方面をふりかえったところ。少し高いところに上ってきたことがわかります。

一里塚を過ぎたらいよいよ小野峠へと標高を上げていきます。

温泉スタンドかと思ったら、健康波動水なる水スタンドでした。

このあたりの初期中山道の道筋はだいぶぐねぐねしています。交差点になるたびに右へ左へと進路を変えていきます。

ここにも案内板。細かく設置されていてとても助かります。

ここは道なりに左手に進みますが、右手に進むと、中世三沢氏の居城だったとされる高尾城址に行けるそうです。

上り坂がきつくなってきました。

クマ注意の看板がありました。令和6年6月21日というのは本日から約3ヶ月前、割と最近のできごとです。一応熊鈴は持ってきたので、住宅地を抜けたら装着しようと思います。

ここで舗装路が途切れ、奥が砂利道になっていました。

振り返ったところ。平野部がだいぶ遠くなってきました。

先ほどと同じ看板がここにも置かれていました。住宅地も過ぎたのでここで熊鈴を装着、マグネットを外して鳴らし始めることにしました。

ざくざくと音を立てながら砂利道を上っていきます。

砂防ダムが見えてきました。

宿ケ石に到着しました。協議会ガイドには「宿返しの石」という名前で紹介されており、「大石の上に顔。万治の石仏に似ている。」とのコメントが添えられています。

宿ケ石は三叉路になっており、案内標識が置かれていました。

写真右手から上ってきて、左手に向かっていきます。峠道らしい景色になってきました。

またクマの看板、しかしこれまでの2枚より日付がぐっと新しいです。令和6年8月25日は今からちょうど3週間前。峠道に入ってからここまで誰ともすれ違ってもいませんし、不安を抱えながらの峠歩きになります。

小野峠まで 1.4km、早く抜けたい気持ちになってきました。

途中コンクリート舗装された区間がありましたが、しばらくしたら未舗装路に戻りました。

立派な砂防ダムがありました。

水が流れた跡のある急な峠道をひたすら上っていきます。

別の道と合流しました。三沢峠〜三郡の辻と書かれた案内板がありました。

小野峠の頂点が近づいてきました。少し木漏れ日があって気持ちが良いです。

「旧中山道 小野峠」「左 みさは」(三沢) 「右 をの」 (小野) と彫られた石碑がありました。

石碑の後には三郡の辻へ至る階段がありました。峠のピークに着いたテンションそのままに気づいたら階段に足をかけていました。

三郡の辻まで上っていきました。

三郡の辻は筑摩、伊那、諏訪の三郡が接する峯で、各郡の浅間社が祀られている場所とのことです。

3つの石祠をアングルに収めてみました。写真右手前、中央右寄り奥、そして左手前に3つの石祠が各々の方角を向いて鎮座していることがわかいrます。

1つ目の石祠。

2つ目の石祠。浅間神社と彫られています。

3つ目の石祠。三郡辻浅間社と彫られています。

三沢峠 ▶︎ 小野宿

峠の石碑があるところまで戻り、小野方面に少し下ると舗装路に出ました。ここに初期中山道の案内板がありました。ちょうど旧中山道を歩いていたときに本山宿と贄川宿の間の桜沢で見かけたものと同じもののようです。

ここにも小野峠の石碑がありました。石碑に埋められた説明板にはこの先東八十メートルと添えられています。

割れた岩と、その横に「楡沢山 (にれさわやま) の割り石」と書かれた標柱がありました。

寛文5年 (1665年) に起きた山林の利用を巡って起きた争いの調停の印として設置されたそうです。

舗装路を下っていると綺麗なパターゴルフ場が見えてきました。たまに車も通り過ぎ人の声もしてきて、クマの脅威から解放され文明圏に戻ってきた安心感を得ました。

しだれ栗森林公園に到着。公園事務所のおっちゃんが気さくな方で、色々な旅の経験談を語り合いました。

公園の事務所の中の様子。団体も収容できる休憩所になっているようです。

このあたりはしだれ栗森林公園になっており、もう少し下ったところにしだれ栗の群生地があるようです。早速向かってみます。

これがしだれ栗でしょうか。枝がぐねぐねしていて特徴的です。

こちらの栗の木は枝がしだれている様子がはっきりとわかります。

「天然記念物 小野村シダレグリ自生地」と書かれた案内板がありました。しだれ栗は通常の栗が突然変異で枝垂れるようになっためずらしい物とのことです。

一帯には800本以上のシダレグリが自制しているとのことです。

枯れたしだれ栗の枝が集められオブジェのようになっていました。

なかなか見応えがあります。

天狗社と書かれた鳥居がありました。

公園事務所のおっちゃんが「葉が落ちた冬がいちばんきれいだからその頃にまた来て」とおっしゃっていました。

日本中心の標と書かれた標識がありました。ここから 6.1km 先にあるそうですが、この先の林道の未舗装区間においては車両通行が困難な区間もあるとの注意看板も。

道端に菜の花が広がっていました。

藻がたくさん生い茂った池があり、釣りをしている人がいました。

江戸から58里 (約227.8km) の楡沢 (にれさわ) の一里塚に到着しました。舗装路から未舗装の脇道に入ったところにありました。両塚綺麗に現存しています。未舗装路かつ両塚現存は今回の初期中山道区間で唯一のものになります。

初期中山道と一里塚と書かれた案内板がありました。初期中山道の道筋は大久保長安という方により整備されたそうですが、没後まもなく塩尻峠ルートに切り替えられたとのこと。せっかく作ったのにという嘆きの声が聞こえてきそうです。

北西側の塚の様子。

南東側の塚の南に回り込んで両塚をアングルに収めた様子。この間が初期中山道の原道ということになります。

両塚の間の延長線上に未舗装路の道筋が残っており、散策できるよう整備されていました。

これはなんだかヤバそうなキノコ。

土の道がしばらく続き、やがて舗装路が迫ってきました。

ここで舗装路に合流しました。このあたりは上下線が分かれていました。

色白水と呼ばれている水たまりがありました。この水を飲んだり顔を洗うと肌が白く美人になるとの言い伝えがあり、中性で飲みやすいそうです。

脇道があり、初期中山道と書かれた標識がありました。

なかなかの草具合な箇所がありました。しかもこのあと軽トラとすれ違い、この道に突っ込んでいきました。びっくり。

車道に合流しました。軽トラはなにをしにここに入っていたのでしょうか。

だいぶ坂道を下りてきて別れ道に到着しました。右側に直進する脇道へと入っていきます。

ここにも案内標識がありました。

「天然記念物枝垂栗自生地 東方向二十六丁 内務省」と書かれた石碑がありました。戦前に建てられたもののようです。

先ほどの石碑の横には小野公園と書かれた標柱がありました。

これは桜の木でしょうか。

駒沢踏切で中央線の辰野支線を渡ります。塩嶺トンネルができる前はここが中央線の本線でしたが、今では普通列車が1日上下9本ずつ通るのみとなっています。

辰野支線は全線単線となっています。写真は南側を見渡したところ。目の前には遮断機のない人道踏切がありました。

しだれ栗入口交差点で国道153号に入りました。なにやらすごい渋滞が起きています。中央道で事故でもあったのでしょうか。

小野宿界隈は造り酒屋をはじめとした趣ある建物が街道沿いにたくさん並んでいます。「夜明け前」は島崎藤村の同名の小説から名付けられた地酒。こだわりが詰まったお酒だそうです。

旧小野家住宅 (小野宿問屋) がありました。なかなか大きな建物に見えます。県宝とのこと。

安政6年 (1859年) の大火後に再建されたもので、梁行十間半、桁行八間半の大規模な本棟作り (切妻造り) とのことです。敷地の奥行きは50間 (約91m) もあり、宿場町特有の短冊形の敷地を有していたこともわかります。

小野宿問屋を南側から眺めた様子。右手前の入り口は通用門で、奥にある薬医門形式の門が表門になります。

倉澤家の手前に高札場がありました。江戸時代に定書 (法度) などを掲げた大型の掲示板です。

こちらの大きな門には「武家屋敷 倉澤家」とありました。その手前には問屋址と書かれた石碑がありました。

明倫館と書かれた古い建物は明治36年 (1903年) に建てられたもので、かつての小野村役場だそうです。国の登録有形文化財にもなっています。

明倫館の入口には小野村道路元標がありました。下部が一部舗装に埋まっているようです。

初期中山道の街道から少し外れた国道の先にとても大きな火の見櫓がありました。長野一美しい火の見櫓との呼び声も高いとか。こちらも国の登録有形文化財になっているとのこと。

明倫館に戻ってきました。ここから国道を離れ、初期中山道の2つ目の峠である牛首峠へと上っていきます。

小野宿 ▶︎ 牛首峠

牛首峠に至る県道254号へ。日差しをほとんど遮れず、汗だくになりながらの峠アプローチ。でもこの里山の景色は最高です。

江戸から59里 (約231.7km) の飯沼塚原の一里塚跡に到着しました。石碑と案内板が設置されていました。

逆光でやや見づらいですが「史蹟 一里塚」と彫られているようです。

道の反対側には標柱もありましたが、だいぶ色褪せてしまっています。

一説によるとここから右に伸びる脇道が原道らしく、草道で木陰もあり気持ち良さそうなので入ってみましたが、途中で足場が悪くなり電柵も貼られていて避けながら歩く必要がありました。素直に舗装路を歩くことをおすすめします。

家紋入りの立派な蔵があちこちに見える美しい集落に入ってきました。

道幅が狭くなり勾配もきつくなってきました。

やたら高さのある高さ制限ゲートのようなものがここから先何箇所にもありました。ぶら下がっているバーは高さ調節可能のように見えます。目的が気になります。

道端に道祖神が佇んでいました。

飯沼の庚申石祠と書かれた標柱がありましたが、付近に見当たりません。後で調べると、この崖の上に明暦4年 (1658年) の大変古い庚申石祠があるそうです。

飯沼コミュニティーセンターの前には熊野諏訪神社のトチノキ社叢と書かれた標柱がありました。川の対岸にあるようで、ここから徒歩で行くのはだいぶ遠回りが必要そうでした。

道端に馬頭観音が並んでいました。一番奥のものは「寛」の字が見えるので江戸時代前〜中期のもののようです。他は明治、昭和のもの。

またゲートが現れました。

こちらにも。

道端に佇む明治年代製の馬頭観音。

行き交う人々を見守る双体道祖神。

道路の幅がさらに狭くなりました。

相変わらずゲートがあります。写真を撮り忘れたものもあるので、実際にはここで紹介した以上のゲートがあります。

大きな火の見櫓が現れました。森に飲まれかかっています。

庚申塔や馬頭観音、道祖神などが並んでいました。辰野町営バスの終点である山口バス停も過ぎ、この右手が道中最後の民家となりました。

コスモス畑がありました。赤ピンク白と鮮やかです。

初期中山道の道筋はここを右手のはずですが、なんだか怪しい雰囲気です。

藪漕ぎでもしないと通れそうにありません。ここは素直に舗装路を歩くことにしました。

舗装路を上り、先ほどの分岐道と合流しました。ここから見ると通り抜けられそうな雰囲気なのですが、実は実質通行不可というトラップ。

もうバテバテ、しんどい!と思っていたところにちょうど休憩東屋がありました。

休憩東屋の前からはとてもよい眺望でした。通ってきた集落が豆粒のようなサイズになっていました。奥の山々は蓼科山と北八ヶ岳の山々のようです。

東屋でしっかり休息後、いよいよ峠のピークへと上っていきます。

江戸から60里 (約235.6km) の前山の一里塚跡に到着しました。北塚が現存しており、頂上には石碑もありました。

南塚は見当たりません。標柱が立っていました。

案内板はこれまで通ってきた一里塚・一里塚跡と同じものが置かれていました。やはり北塚のみ現存しているようです。

牛首峠のピークに到着しました。なにやら石碑があります。

歌碑のようです。

峠の頂点は少し開削されているようです。車両が通りやすくなっています。

牛首峠お玉ヶ池と書かれた案内板がありました。峠からお玉ヶ池方面へと伸びるハイキングコースのマップが掲載されていました。そして右上には・・・。

牛首峠の由来が書かれていました。両親の反対にあったカップルが沼で心中、女に懐いていた牛が主を失ったことで暴れ、仕方なく首を切り落とされて峠の近くに埋められたのが由来だそうです。縁結びの峠とありますが、そのストーリーは悲劇的なものでした。

牛首峠 ▶︎ 桑崎集落跡

牛首峠から桜沢へ下る途中、桑崎集落という廃集落に至る林道が伸びているので寄り道することにしました。意外なことに、車やバイクが数台入っていったり下りていったりしていました。

下りてきた道を振り返ると辰野町の標識がありました。ここからは塩尻市ということになります。

林道桑崎線と書かれた看板が立っています。道中は地形図的にはひたすら上りです。まだ体力が残っているのでいざ突撃。

協議会ガイドによると、道端のこれは馬頭観音碑だそうです。

沢伝いに未舗装路が伸びています。

沢を橋で渡ってZ字に勾配を上がっていく道になりました。

ちょくちょくコンクリート製の構造物があります。

道の途中に小屋がいくつかありました。薪が積まれています。

工事や林業関係者の事務所でしょうか。

沢は立入禁止だそうです。

朽ちかけの建物が見えてきました。ここは民宿だった建物だそうです。

家財道具が残っているのが見えます。

奥にホワイトボードがあり、ちょこっと落書きされているようでした。

崩れかけの祠がありました。

これは東屋か何かの跡でしょうか。

遠くに小さな校舎が見えました。

ここで上がってきた道を外れ校舎へ向かいます。

2棟のサイロが並んでいました。桑崎集落は牧畜が盛んな集落だったそうです。

少し朽ちた小さな校舎が姿を表しました。この校舎は贄川小学校桑崎冬季分校のものだそうです。

扉が開いているので中をちょっと覗いてみようと思います。

中はだいぶ荒れた感じになっていました。段ボール、絵画、ストーブの排気パイプ、毛布、タイル、椅子、時計・・・、色々なものが散らばっています。

どこの学校にもある JIS 規格の学校机の椅子がここにも。

この小さな部屋は雰囲気が異なります。職員室でしょうか。

トイレはどう見ても使えなさそうですが、トイレットペーパーが備え付けられていました。

下駄箱だったであろう棚には蚊取り線香やらグローブやらマグカップやら色々なものが置かれていました。

奥の部屋にはピアノがありました。床が抜けて完全に倒れています。この先に立ち入るのは危険です。

昔はここまで倒れていなかったようですが、月日を経てどんどんと崩れていっているみたいです。

ホワイトボードには詩が貼られていました。

桑崎集落跡 ▶︎ 桜沢

廃村探訪を終えて街道の道筋に戻ってきました。桜沢へと下っていきます。

沢伝いに道が伸びています。道はところどころ狭くなっており、車が追い抜いていく際は少し避ける必要がありました。

だいぶ沢との高低差が広がってきました。途中で閉じられた階段があり、その先には砂防ダムのようなものがありました。

谷間の奥に中央本線 (中央西線) の線路が見えました。初期中山道の原道は沢伝いに線路の下をくぐる位置にあり、最終的には「是より南 木曽路」の碑のあたりにつながっていたそうです。さすがに私にはここを下りる勇気も装備もありません。

線路を見下ろす位置にやってきました。

開けてきました。まもなく旧中山道と合流します。

ここで現中山道ルートに合流!初期ルートを完歩することができました。左奥に初期中山道の案内看板があり、これが今回のルートを歩いてみたいと思ったきっかけでもあります。今回はここから贄川関所まで旧中山道を再訪していきます。前回歩いた時と (→中山道六十九次 (7/16) 下諏訪→奈良井) と重複しますが、一部異なるルートを歩きます。

看板のアップ。横断歩道がなく交通量も多いので渡るのは諦めました。

木曽の日本遺産のモニュメントを通り過ぎ、国道19号の旧道 (桜沢トンネルができる前の国道の道筋) へと入っていきます。

桜沢 ▶︎ 贄川駅

「是より南  木 曽 路」の標識を超えます。なお反対側には「標高 812m」と書いてありました。

「是より南 木曽路」の石碑に到着しました。昭和16年 (1941年) に建立されたものですが、木曽路のシンボルの一つといえます。

この付近にあった桜沢橋が尾張と信濃 (松本藩) の境界だったそうです。

去年来た時は車道をそのまま直進しましたが、のちに木曽観光連盟のガイドマップでここの左手の坂道を上ると原道を歩けることを知り、今回初挑戦することに。

足場があまり良くありません。おそるおそる上っていきます。

道筋がややわかりづらいですが、土手のような坂を上っていきます。

道筋がはっきりしてきました。

道端に馬頭観音がありました。

原道は落石ガードでがっしり守られています。

だいぶ舗装路と標高差ができましたが、ここから下っていくようです。

八手観世音像と南無阿弥陀仏碑。

中央本線の廃トンネルが現れました。大岨 (おおそ) トンネルというそうです。中は崩れてしまっています。

通れないように土砂を持って塞がれていました。土砂の上には天井や側面から剥がれてきたレンガが散らばっていました。

トンネルを背にして線路があったであろう進路を見ると、なんだか通れそうな雰囲気にはなっています。しかし今回の目的は街道歩きなので、ここで舗装路に戻ります。

舗装路に繋がるスロープを下っていきます。

合流し振り返ったところ。いかにも旧道の入口といった佇まいです。

桜沢の立場茶屋跡に到着しました。立場本陣と言われ賑わったそうです。

明治天皇櫻澤御小休所と書かれた石碑がありました。

奈良井川に設置された片平取水場が見えました。

旧片平橋に至る旧道がありましたが、現在この橋は渡ることができません。新しい片平橋から眺めることにします。

現在の片平橋から旧片平橋が見えました。昭和10年 (1935年) に建設された橋で、土木遺産にも認定されています。前回ここを歩いた際には見落としていたので今回しっかり見ることができてよかったです。

旧片平橋の西側の入口の様子。橋はとても頑丈そうですが、チェーンが張られていました。

前回は旧中山道の道筋に近いこちらを進んで結局沢を渡れそうになく引き返しましたが、今や除草もされず完全に草に飲まれて歩けなくなっていました。

江戸から62里 (約243.5km) の若神子一里塚に到着しました。北塚が一部削られているものの現存しています。南塚は中央本線建設により消失したそうです。

若神子バス停の水場。風情があります。

おっと、足元にカエルがいました。

供養塔、道祖神、馬頭観音でしょうか。一番左の供養塔は明和二と掘られているのが読めます。明和2年は1765年になります。

中央本線と国道が見下ろせる位置にきました。前回歩いたときはここで特急列車が見えたのですが、今日は通り過ぎず。

今回もこの草道を歩きます。

前回は草道から山側にさらに続く分岐を進みましたが、今回は直接贄川駅側に下りてみました。

贄川駅の様子。落ち着いた味のある駅です。1985年までは有人駅だったそうです。

贄川宿の案内がありました。今日はここから電車で帰る予定ですが、まだ時間があるので前回スキップしてしまった贄川関所跡を見学しに行こうと思います。

贄川宿の大きな看板。塩尻宿などにも同じものがありました。

国道19号の 165km キロポスト。

贄川関所跡に到着しました。閉まりかけでしたが、声をかけたら見学させてくれました。

贄川関所は福島関所の補佐する副関として置かれた関所で、入鉄砲出女や白木 (材木) 流通の取り締まりがされていました。

建物は再建したものですが、当時の間取りや内装などが再現されています。

鉄砲や弓矢などを置いて脅しを利かせていたようです。
贄川の名の由来が解説されていました。温泉が湧き出ていたことから熱川と称していたが、川魚をお供物の「お贄」として献じたことから「熱川」が「贄川」になったと伝えられているそうです。

関所をたっぷり見学したのち贄川駅に戻りました。

電車の本数が少ないので、だいぶ駅で待ちぼうけしました。塩尻方面の列車に乗って帰路に就きました。

ここまでご覧いただきありがとうございました!

目次中山道六十九次 (目次)