中山道六十九次 (6/16) 芦田→下諏訪

東京の日本橋から旧中山道経由で京都の三条大橋を目指すウォーキングの6日目です。全行程のリンクと注意事項、アドバイスなどはこちらをご覧ください

概要

記録

芦田宿 (26/69) ▶︎ 笠取峠

金丸土屋旅館の布団はふかふかでぐっすり眠ることができました。これから中山道の峠越えということで、ご主人が朝6時に朝ご飯を作ってくれました。昨晩の夕餉と同じく自家栽培のご飯を頂き、ご主人の米づくりの工夫などを楽しく聞かせていただきました。

とても親切にしていただいたご主人とお別れし、6時半過ぎに出発しました。

趣あるオブジェ。このあたりが芦田宿の西の入口でしょうか。

立派な常夜燈がありました。ここから笠取峠の坂道が始まります。

笠取峠のマツ並木と書かれた標柱がありました。平成16年 (2004年) 3月建立とあり、ピカピカです。

この先の松並木は天然記念物のようです。道には一昨日の雪がまだ残っています。しかも足跡は一つもありません。

ちゃんと松並木になってきました。

松並木の中腹にある国道142号の交差点にも立派な常夜燈がありました。

江戸から47里 (約184.6km) の笠取峠一里塚に到着しました。榎ではなく赤松が植わっていました。当時から赤松のようです。

一里塚の石碑も置かれていました。塚自体はやや自然に溶け込み気味です。

笠取峠の頂上付近に石碑がありました。埋め込まれた鉄の案内板によると、国道142号のための改良工事の完成記念碑とのことです。なかなか珍しいスタイルの記念碑ですね。

笠取峠の頂上に到着しました。立科町と長和町の町境になっているようです。標高は YAMAP によると909mです。

峠を抜けると学者村と書かれた石碑がありました。町営の別荘地とのことです。

ここ笠取峠にあった茶屋を描いた版画のようです。江戸時代は結構賑わっていたのですね。

絵の右下に笠取峠立場図版木と書かれた案内板がありました。

笠取峠 ▶︎ 長久保宿 (27/69)

笠取峠を本格的に下っていきます。この先は長久保宿ですがまだ見えません。奥にも険しい山々が見えます。

国道142号から旧道に分岐するところに中山道の原道がありますが、入口を見落としていたようで、出口で気づきました。雪で覆われていて道と気付けなかったみたいです。

YAMAP の地図によるとこの方向が原道のようですが、歩ける気がしないので諦めました。

再び道道の分岐がありました。ここは頑張れば歩けるかも。試しに突撃してみます。

場所によってはだいぶ雪が深いです。もちろん足跡もありません。ところどころ赤テープがあるのでそれを頼りに進みます。

原道の出口はほとんど道が消失していて、最後はコンクリート壁を飛び降りる必要がありました。これは上級者向けですね。しかも積雪期に通るのは全くおすすめできません。

是より長久保宿と書かれた標柱がありました。集落に付くと本当にホッとします。

長久保宿の入り口に鎮座する松尾神社。酒造りの守り神として信仰されているそうです。

まつり地蔵と書かれたお地蔵さんがありました。右の石柱に刻まれている文字は「日本第一酒造之祖神」?でしょうか。

長久保宿の中心に向けて歩を進めます。

特徴的な看板の建物は呉一庵。軒下にある車輪のついた物体は「竜吐水」という火事の消火に使う道具だそうです。

右手に丸木屋という建物があります。資料館になっているそうです。

立派な標柱がありました。

長久保宿の本陣跡に到着しました。この表門と御殿が現存しており、この表門は幕末にできたものとのことです。

本陣の表門横には高札場がありました。右手の案内板によると、御殿は17世紀後半のものと大変歴史ある建物のようです。

直角に曲がる角地に浜田屋旅館がありました。江戸時代から150年以上続く旅籠屋さんで、現代でも中山道ウォーカーに人気の旅館のようです。私は軽井沢発だったので手前の芦田宿で泊まりましたが、下諏訪発で江戸方面に歩く機会があればぜひここに泊まってみたいです。

再び直角に曲がるところに辰野屋という旅籠がありました。出梁 (だしばり) 造りのとても立派な建物です。現在は資料館になっているようです。

旧中山道はここで直角に曲がり、突然狭い路地になります。少しくだったらすぐまた直角に曲がります。

長久保宿 (27/69) ▶︎ 和田宿 (28/69)

歴史ある建物が多数立ち並ぶ長久保宿を後にし、和田峠の麓の宿場である和田宿へと進んでいきます。写真は進行方向右手、北側に目を向けた様子です。

進行方向正面に目を向けるとこんな感じです。現在の標高は680m程度で、目の前の産地は標高1,000m前後のようです。

江戸から48里 (188.5km) の四泊一里塚跡に到着しました。榎が植っていましたが、昭和35年 (1960年) の道路改修で伐採されてしまい現存していないとのことです。ちなみに、手前にあるこの青い案内板はこの先何度も目にすることになります。

大和橋の橋詰から依田川を眺めます。左手から合流してくる川は大門川です。この先上田市で千曲川に合流し、信濃川となって日本海に注いでいます。

国道を一旦離れ、大門川と依田川の間の土地を進んで行きます。まずは落合橋で大門川を渡ります。親切な案内板がありました。

依田川を渡ります。奥に見える立派な橋は国道142号の青原橋です。左手には水力発電所の青原発電所があります。

青原発電所の全景を見渡せる場所に来ました。斜面のだいぶ高いところから水圧鉄管が伸びているのがわかります。

水明の里と書かれた大きな石碑がありました。左手が青原橋で、中山道は右手の旧道に進みます。

中山道について解説する大きな案内板が置かれていました。ここは歴史の道広場と呼ばれています。

青原橋を横から見たところ。美しい形をした大きな橋です。

上深山口バス停の待合室。茅葺き屋根がとても街道にマッチしています。ここには長和町役場から長久保宿界隈を経て和田峠の男女倉口へと至る長和町営バスが通っています。ただし2024年4月からはフルデマンド方式に変わり、予約・配車システムを使わないと乗れないシステムになった模様です。

石碑、石像や小さな祠などが集められている場所がありました。常夜燈には「天王夜燈」と書かれていました。

「のみ水」と書かれた湧き水がありました。こんこんと水が湧いています。

たくさんの石碑が並んでいるところがあり、案内板によると「三千僧接待碑」という名前で、諸国遍歴の僧侶を供養接待するための石碑だそうです。

江戸から49里 (約192.4km) の芹沢一里塚跡に到着しました。大きな石碑が建っています。

巨大な石碑があり、よく見ると「是より和田宿」と刻まれていました。

和田神社と書かれた大きな鳥居がありますが、この先は右手が和田小学校、左手が廃校になった和田中学校になっています。この間を抜けていくと神社があるのでしょうか。確かに地図には「和田神社」はあるようです。和田中学校は1997年に廃校になったようですが、味のある木造校舎が残っていました。

ここまでなだらかな坂道を上ってきましたが、ちょっと勾配が急になってきました。雰囲気ある建物が立ち並んでいます。手前右の立派な建物は資料館になっていました。

右手の建物の壁には「おやど和田宿」と書かれた看板が掛かっていました。宝屋という旅籠だった建物を Airbnb で部屋単位で無人で貸し出しているようです。空いていれば1人でも泊まれるようですが、1人だとちょっと割高みたいです。

このあたりが和田宿の中心でしょうか。道幅も広く多くの建物が並んでいます。右手の立派な建物は訪問時何の建物かわからなかったのですが、その後調べたら羽田野という古民家で、コワーキングやセミナー、研修会場として活用しているそうです。しかも個人での利用は無料。こんなところでリモートワークをしてみたいものです。

さきほどの交差点の左手に本陣跡がありました。右手に回ると立派な門があるのですが、そちらは写真を撮りそこねてしまいました。

和田宿の中心街から和田峠方面、緩やかな坂道がずっと先まで続いています。

立派な脇本陣跡がありました。その脇が上和田バス停と休憩所があり、ここで和田峠の峠超えに向けて装備を整えました。

高札場跡の案内板がありました。現存しないようですが、当時の記録の一部が紹介されています。左のバス停は上町中バス停です。

和田宿 (28/69) ▶︎ 和田峠

江戸から50里 (約196.4km) の鍛冶足一里塚跡に到着しました。塚は現存しませんが、たくさんの石碑が並んでいるほか、「右 諏訪街道 左 松澤歩道」と書かれた道標もありました。諏訪街道はこの地方の中山道の別名でしょうか。松澤歩道 (松沢歩道?) はどの道を指しているのかよくわかりません。

国道142号と交差した後はしばらく並行する旧道を歩いていきます。

並行していた依田川とはここでお別れのようです。青原発電所のあたりと比べるとずいぶん川幅が小さくなりました。

唐沢集落の入口に立派な石碑がありましたが、何が書いてあるのかは読めませんでした。

唐沢バス停で一休み、旅館のご主人がサービスでおにぎりをくれたのでありがたく頂きました。とてもおいしかったです。

中山道の原道は唐沢集落を通らずこの奥の山道を通っているようですが、全く除雪されておらず通るのはちょっと危険そうです。Google Maps の旧中山道は唐沢集落を指しているので、今回はそちらを歩きました。

江戸から51里 (約200.3km) の唐沢一里塚はこの急階段?を上った先にあるようです。しかし雪で全く段差が見えないのと、雪自体も相当深そうだったので断念しました。原形を保った立派な一里塚があるそうなので、積雪期ではないときに再訪したいポイントです。

YAMAP の街道地図をたよりに脇道に入ったら行き止まりになっていました。この先は人が通れない水道橋です。以前はここに人が通れる橋があったのでしょうか。引き返して国道142号を歩きました。

和田峠男女倉口に到着しました。標高はすでに1,100mに達しています。国道142号はトンネルで和田峠を抜けますが、旧中山道はここから峠のピーク1,600mを目指して上っていきます。バスが通っているのもここまでです。

おっと通行止め。しかしこちらには冬山登山の装備もあるので歩く分には問題ないでしょう。

原道のほうは雪に埋もれていました。国道142号の旧道で迂回することもできますが、好奇心が勝り突撃してみました。

動物の足跡が縦横無尽に走っています。雪の深さは膝ぐらいあります。チェーンスパイクなどは持っていますが、ワカンやスノーシューまでは持ってきていなかったので、つぼ足で進みます。

雪と格闘しながらなんとか上ってきました。小川を慎重に跨いで歩を進めます。

国道の旧道に合流しました。歩いてきた雪道を振り返ったところ。30分で歩ける距離を深い雪道だったせいで50分近く掛かってしまいました。雪の深さも膝頭を超えてきたので体力もかなり消耗してしまいました。

接待と呼ばれている場所に到着しました。この古い茅葺きの建物は、国の史跡に登録されている永代人馬施行所とのことです。この建物は嘉永5年 (1852年) に再建されたもので、ここでは明治3年 (1870年) までの間、冬期に旅人へ粥や焚木を施していたそうです。

接待から先にも旧街道の原道がありますが、流石に雪が深すぎるので国道の旧道で迂回しました。写真の方向には江戸から52里 (204.2km) の広原一里塚があるはずですが、旧道からは見えませんでした。

再び旧街道の原道と国道の旧道が合流しました。積雪が腰ぐらいまであります。さすがにここを歩ける装備は持っていません。

東餅屋と書かれた案内板がありました。旅人や馬が休憩できる茶屋が5件あったそうです。ただし現在は生垣を残すのみとなっています。

東餅屋の案内板の左手には、案内板で言及があったドライブインと思われるお店がありましたが、営業していないようでした。名物力餅、食べてみたかったです。

おっと、ここから先は車道も除雪されていません。和田トンネル (旧トンネル) へと通じている国道の旧道は除雪されていますが、それだと和田峠をスキップしてしまいます。どうしようか悩みましたが、スノーボーダーの足跡があるので辿ってみることにしました。なお、旧街道の原道は左手にありますが、足跡一つないので断念しました。

スノーボーダーの皆さんが踏み固めてくれた足跡の上を歩いていきます。つぼ足で新雪を超えていた区間と比べると圧倒的に歩きやすいです。

途中でスノボ跡が分岐しており、そのうち一つが車道から分岐し旧街道原道の和田峠方向に向かっていました。これがなかったらまたつぼ足再開だったので、だいぶ助かりました。

ついに標高1,600m和田峠に到着!中山道はもちろん、五街道の最高地点でもあります。

和田峠の頂上には古峠と書かれた案内板がありました。「冬の和田峠超えの厳しさは想像を絶するものがあったであろう」などと書かれていますが、令和の時代にそれを味わっている現代人がここにいます。

深い雪でこれ以上寄れませんが、大きな石碑が2つ立っていました。そして石碑の向こう側には諏訪の街がうっすら見えました。

和田峠からさらに稜線を伝って標高を上げていくスキーヤーの足跡がありました。

すこし上って和田峠の全景を捉えてみました。右が歩いてきた江戸方、左がこれから進む京方になります。現在14時20分、計画していた時刻をだいぶオーバーしてしまったので、長居はせず急いで下っていくことにします。

おっと、京方は足跡がありません。しかも割と急勾配。ただ、ある程度下れば車道に出るので、足元に気をつけながら歩を進めます。

和田峠 ▶︎ 下諏訪宿 (29/69)

少し下るとすぐにスキーヤーの足跡がありました。これは心強いです。所々目印もあるのでなんとか下っていけそうです。

写真を撮るのも忘れて夢中で急な雪道を30分ほど下っていると国道の旧道に出て、そこから更に15分ほど下ると国道の新道に出ました。ここで雪山装備を解いてウォーキングモードにスイッチです。

江戸から53里 (約208.1km) の西餅屋一里塚跡に到着しました。といっても一里塚は国道の脇の旧街道原道脇にあり、国道からは見えません。原道は雪が深すぎてどうみてもアプローチできそうにありません。泣く泣く通り過ぎます。ちなみに塚は現存せず、石碑だけがあるようです。

廃墟マニアには大ウケしそうな廃ホテルの跡がありました。20年以上もの長い間廃墟になっているようです。

国道と旧街道の原道が合流するところに水戸浪士の墓である浪人塚がありました。元治元年 (1864年) にここで1,000人余りの水戸浪士たちと松本・諏訪の連合軍1,000人余りがドンパチした古戦場とのことです。

浪人塚の様子。静かに手を合わせました。

再び国道に戻ると脇道が分岐するところに「樋橋村の今昔」と書かれた案内板がありました。ここには和田峠を通行する旅人が休憩できる茶屋本陣が置かれていたそうです。なお、ここには樋橋 (とよはし) バス停があり、ここから下諏訪駅方面に路線バスが発着しています。和田峠を挟む中山道の男女倉口とここ樋橋の間は公共交通機関の空白地帯ということでもあります。

「中山道 樋橋茶屋跡」と書かれた屋根付きの大きな看板がありました。なお、この先国道から少し離れたところに江戸から54里 (約212.1km) の樋橋一里塚跡があるようですが、私有地を通る必要があるとのことです。

国道から再び脇道に入り、町屋敷という地域の住宅地を歩いていると、道路のど真ん中に送電線の鉄塔があり、それをぐるっと避けたところに道祖神がありました。

御柱木落し坂と書かれた標識がありました。大きな丸太が崖の上に横たわっています。左手に目を向けると・・・。

「諏訪大社下社御柱街道 天下の木落し坂」と書かれた石碑と案内板がありました。諏訪大社下社の御柱祭というお祭りで、山で切り出した木をこの坂から落として運ぶそうです。とても迫力がありそうです。

ここから急な歩道を下っていきます。幸い除雪されていました。

陽が落ちてしまいましたが、諏訪大社下社春宮までなんとか下りてきました。

写真だと少し分かりづらいですが、諏訪湖と湖を囲む下諏訪の町並みが一望できました。

下諏訪は温泉も有名です。いい感じの温泉施設がありましたが、予定を大幅オーバーしていたので我慢しました。次に中山道歩きを下諏訪からリスタートするときには前日入りして入りたいと思いました。

甲州道中 (甲州街道) と中山道の合流地点に到着しました。古い道標などは見当たりませんが、立派な石碑と案内板がありました。

ここで旧中山道は直角に右折です。直進すれば諏訪大社下社秋宮ですが、次回のお楽しみとします。

提灯が並んだ美しい門がありました。

門の先には高札場跡がありました。ライトアップされていてとても綺麗です。計画を大幅オーバーして日没後の到着となってしまいましたが、夜ならではの眺めを見ることができました。

下諏訪宿 (29/69) ▶︎ 下諏訪駅

中央本線の下諏訪駅は、下諏訪宿を抜けた先にありました。この交差点で旧中山道を離れ、駅へ。

下諏訪駅の駅舎は宿場町の雰囲気に溶け込む美しい外観になっていました。このあと上諏訪駅まで各駅停車で移動し、駅のホームにある足湯で疲れを癒やしたあと、特急あずさに乗って帰りました。

続き中山道六十九次 (7/16) 下諏訪→奈良井