中山道六十九次 (7/16) 下諏訪→奈良井

東京の日本橋から旧中山道経由で京都の三条大橋を目指すウォーキングの7日目です。全行程のリンクと注意事項、アドバイスなどはこちらをご覧ください

概要

記録

下諏訪宿 (29/69) ▶︎ 塩尻峠

金曜日の夕方、仕事を早めに切り上げて特急に乗り、下諏訪へ前泊しにやってきました。前回寄れなかった諏訪大社下社秋宮にも参拝し、道中の無事を祈願しました。

予約していた中川旅館に到着しました。下諏訪宿の本陣跡のすぐ隣に位置しています。

お宿の入り口は脇道を入ったところにあります。

こたつのすぐ横に布団が敷かれ、暖かくして寝ることができるようになっていました。

素泊まりプランだったので、晩ごはんは街に出て食べることにしました。夜7時過ぎでもやっているお店を探していたら、「下町ひまわり」という素敵な雰囲気のカレー屋さんを発見、入ってみました。

本日のカレー「なすとひき肉」を注文、おしゃれな盛り付け。味わい深くてとても良かったです。

お宿のお風呂は点検中とのことで近くの温泉施設で使える入浴券を渡され、遊泉ハウス児湯というところにお邪魔しました。

館内はほぼ銭湯のような感じでした。温泉は外気も入る半露天な風呂もあり、気持ちよく入ることができました。また、写真の通り入口にお地蔵さんと案内板がありました。泉質が柔らかく良く暖まり「子宝に恵まれる」と広く知れ渡り、子授けの名湯「児湯」と呼ばれるようになったんだとか。

翌朝は5時にスタート。まだ暗いです。下諏訪宿を抜け、前回の離脱地点である駅前交差点まで来ました。

民家の裏路地のようなところがありました。本当に旧街道なのか疑ってしまいますが、しっかり中山道の案内板も出ています。

この道幅、旧中山道の舗装路としては一番狭い場所なのでは・・・。

江戸から56里 (約219.9km) の東堀一里塚跡に到着しました。大きめの石碑が置かれています。

石碑の様子。中山道一里塚と刻まれています。

大橋で横河川を渡ります。奥の山地はこの川の水源地でもある筑摩山地の南端部です。

橋詰にある家具屋さんの入口に中仙道と書かれた石碑がありました。

今井番所跡に到着しました。関所の一種で、入鉄砲・出女などの検問を行っていたようです。

案内板を兼ねた石碑が置かれていました。中山道のルートが変わってここ経由になったことなども記されています。ちなみに旧ルートは初期中山道と呼ばれています。

今井番所の隣に明治天皇今井御小休所の碑がありました。右手の案内板には「御小休本陣 今井家」とあり、国の登録有形文化財に指定されていることも記されています。

このあたりから塩尻峠にアプローチする上り坂が始まります。

岡谷市内の中山道の道順と文化財を示した案内板がありました。説明文は、この地区の道路の発展の歴史を記しています。

立派な石碑が置かれていました。塩尻峠に至る上り坂と絡めてパシャリ。

正面から見ると、右しもすは、左しほじり峠と書かれているようです。

国道20号の下諏訪岡谷バイパスの上を橋で渡ります。

旧中山道と石舟観音の案内板がありました。旧中山道の英語表記は "Kyu nakasendo" となっていました。相変わらずいろんなパターンがあります。

少し上ったところ。左手に諏訪湖が見えます。手前の道路が国道20号で、右手の高速道路は少し南の岡谷 JCT で中央道から分岐した長野道です。長野道は塩尻峠をトンネルでブチ抜きます。

ここから急坂になるようです。左手にはクマ出没注意の立看板がありました。一応熊鈴を持ってきたのでここでマグネットを外して鳴らし始めることにしました。なお先程看板でも案内があった石舟観音はこの右手奥にありました。

道端に巨石がどっしりと鎮座していました。標柱によると「旧中山道の大石」とあります。

通行止の看板がありました。車両向けの案内だと思われますが、勾配もかなり急ですし念の為気をつけて歩くことにします。

先程の通行止め看板から10分で塩尻峠に到着しました。意外とあっけなかったです。

峠から街道を離れて北に進むと展望台がありました。しかし霧が出ていて眺望は期待できなさそうです。

霧がなければ諏訪湖が一望できるようです。残念。

陽が出て暖かくなってきました。ここで軽く朝ご飯を食べました。

ここは塩嶺御野立公園展望台というそうです。素晴らしい眺望の写真がありました。

このとても大きな石碑は、明治天皇巡幸記念碑とのことです。とても長い漢文が彫り込まれています。

塩尻峠の頂上部分はこんな感じです。旧中山道は左手前から右手奥に進みます。展望台方面に北上すると高原キャンプ地として人気の高ボッチ高原に行けるようです。

旧中山道はここから下り坂です。

中山道分間延絵図の塩尻峠周辺往来の図が飾られていました。右端に道中見かけた大石が描かれています。江戸時代は峠に立場茶屋があったようです。この先にあるらしい一里塚も描かれていました。

塩尻峠 ▶︎ 塩尻宿 (30/69)

親子地蔵と呼ばれているお地蔵さんがありました。暖かく着込んでいてなかなかおしゃれです。

道のど真ん中に獣の姿が見えてびっくりしましたが、近づいて見てみたらカモシカでした。クマじゃなくて本当に良かったです。近寄ると逃げていき、少し離れたところからこちらの様子をじっと伺っていました。

江戸から57里 (約223.9km) の東山一里塚に到着しました。とても綺麗な姿です。

案内板と標柱もありました。眼の前にある南塚のみ現存しているとのことです。

突然景色が開けました。しかし霧はまだ晴れていません。

と思ったらほんの7〜8分で一気に霧が晴れてきて雪化粧した山並みが飛び込んできました。方角的に北アルプスでしょうか。

国道20号に合流、と思いきや一旦脇道に進みます。

「犬飼の清水」と書かれた案内板がありました。その左手には峠にあった中山道分間延絵図の続きにあたる塩尻宿周辺の図がありました。

新茶屋立場と書かれた案内板がありました。さきほどの絵にかかれていた新茶屋立場があったとされる場所のようです。

再び開けて気持ちの良い景色になりました。ほぼ真西に進んでいるので、奥の雪化粧した山々は北アルプスで間違いなさそうです。

道端に馬頭観世音がありました。この地方ではちょくちょく見かけます。

すぐ近くにも馬頭観音がありました。たくさん集まっています。

こちらは柿沢の双体道祖神。中山道分間延絵図の更に続きの絵も置かれていました。

高札場がありました。標語の掲示板として現在でも活用?されています。

こちらの立派な民家には本棟民家と書かれた案内板がありました。切妻造りで、棟のてっぺんに大きな飾りがあるのが特徴的です。案内板によると、この飾りは雀踊りと呼ばれているとのことです。

この鳥居のようなゲートは一体・・・。外敵から集落を守るお守りみたいなものでしょうか?

御大典記念と書かれた石碑がありました。よく見ると、伊那方面、諏訪方面などの文字も刻まれており、道標のようです。

江戸から58里 (227.8km) の柿沢一里塚跡に到着しました。案内板によると、明治以降の道路拡張で消失し、後の検証によって推定された位置にこの碑を立てたと解説されています。

石碑には柿沢一里塚跡と刻まれています。

庚申塔や道祖神などの石碑が集められた場所がありました。

ここには「町区上町の双体道祖神」と書かれた案内板と、「十王堂跡」と書かれた石碑がありました。

重要文化財の小野家住宅に到着しました。江戸時代後期に旅籠「ていうや」(いちょう屋) だった建物とのことです。

高札場跡がありました。現代語訳された「定」のほか、町区掲示板や観光案内図も掲げられ、実用的に使われているのが面白いです。

塩尻宿本陣跡に到着しました。看板や石碑のほか、当時の間取り図と案内板が置かれています。当時中山道で最大規模の敷地を誇った本陣だったそうです。

車からもよく見えそうな大きな塩尻宿の看板がありました。

塩尻陣屋跡と書かれた石碑がありました。奥の建物は造り酒屋のようです。加えて、とある県議のとある事件の舞台だとか。

旧道が分岐する交差点に中山道鉤の手跡と書かれた石碑がありました。「鉤の手」は「かぎのて」と読み、直角に曲がる道のことのようです。枡形の別名とも言えるでしょうか。

阿礼神社に到着しました。阿禮神社とも書くようです。とても境内の広い神社です。

立派な鳥居と大きな社殿が見えました。一礼してお邪魔します。

社殿は屋根の形がなかなか特徴的です。

縁起によると、現在の社殿は江戸中期の寛保3年 (1743年) に再建されたものだそうです。

塩尻宿 (30/69) ▶︎ 洗馬宿 (31/69)

重要文化財の堀内家住宅がありました。とてもずっしりした門があります。代々村の名主を勤めた豪農の民家とのことです。

国道153号から裏路地のような雰囲気の旧道が伸びていました。

田川を塩尻橋で渡ったところにある堀ノ内バス停の脇に着物の女性の像が置かれていました。4sq にベニュー登録されている以外に情報は見当たりません (Foursquare: 堀ノ内バス停そばの着物の女性像 - 塩尻市、長野県)。奥の山は「上ノ山」で、頂上は上野山城址だそうです。

中央本線をガードでくぐります。右手方向に塩尻駅があります。地図で見ると、中山道はこのあたりが最北端に見えます。

のどかな田畑の風景と北アルプスの山々、そして右手にはとても大きな工場地帯。ここはレゾナック (旧昭和電工) の塩尻工場で、研削材や耐火剤などプロフェッショナルな現場で使われる様々な素材や製品を作っています。社名が変わったばかりで看板がピカピカでした。

江戸から59里 (約231.7km) の平出一里塚に到着しました。とても美しい松の木が植っています。

案内板と標柱も建っていました。南塚の美しさに目を奪われるあまり、住宅地の裏に隠れた北塚を見落としてしまったことに後で気づきました。

国史跡の平出遺跡が街道から少し外れたところにあるようです。時間に余裕もあるので見学することにしました。

教科書に載っていそうな竪穴住居と高床式倉庫が見事に復原されていました。

古墳時代の竪穴住居を復原したものと書かれています。「復元」ではなく「復原」と書かれているのもポイントです。竪穴住居は縄文時代というイメージがありますが、古墳時代も基本は変わらない様相とのことです。

竪穴住居の正面に回ってみました。屋根裏の通気口が思ったより大きく取られていました。

竪穴住居の中にお邪魔しました。思ったより広々としています。柱や梁もしっかり組まれ安心感があります。

こちらは高床式倉庫。ねずみ返しもバッチリ装備されています。

高床式倉庫の中を見学してみました。とてもしっかりしています。

古墳時代の村と書かれた案内板がありました。6世紀末から7世紀初頭の農村の様子を再現しているとのことです。

北アルプスの穂高連峰を解説した看板もありました。看板には特急列車も写っていて美しい写真になっていました。ちなみにこの一週間後に西穂高方面に出かけて雪山を歩きました。

小ぶりの竪穴住居が並んでいるエリアがありました。

中の様子。身を屈ませないと入れないほど入り口の高さが低いです。古墳時代の人は現代人より小柄だったのでしょう。

こちらの竪穴住居は屋根が段々に葺かれていてちょっとおしゃれです。

平出遺跡公園ガイダンス棟にやってきました。お邪魔して展示を拝見します。

案内図には平出遺跡の全体図が書かれていました。中山道や平出一里塚との位置関係もわかります。体験施設地区では勾玉や土器などの製作、火おこしなどを体験することができるそうです。一部要予約。

製作体験で作られた土器が並んでいました。

ガイダンス棟の前には大きな石碑がありました。

遺跡見学を終えたあとは中山道ウォーキング再開、第1仲仙道踏切で中央本線を渡ろうとしたところカメラを持ったおじさんに出会い、貨物列車が通ることを教えてくれました。

1時間ちょっとの間普通列車や特急列車で練習したのち、重連の EF64 が牽引する迫力ある貨物列車がやってきて無事写真に収めることができました。この貨物列車 (8084レ) は四日市で精製した石油を松本の油槽所まで運ぶ列車の折り返しで、空っぽになったタンク車を四日市に戻すところのようです。

国道19号に並行する旧道の草道を歩いていると、道端になかなかレトロな車が打ち捨てられていました。これは初代カローラでしょうか。

中央本線の普通列車が通り過ぎていきました。塩尻から西側はJR東海の管轄ですが、JR東日本の車両も乗り入れてくるようです。

国道19号は名古屋と長野を木曽路経由で結ぶ国道で、この先木曽路を抜けた先の岐阜県の恵那まで中山道と並行したり重なったりを繰り返す国道です。名古屋から176kmのキロポストがありました。

細川幽斎肱懸松と書かれた石碑がありました。この後ろに大きな松も植っています。細川幽斎 (細川藤孝) は武将であり歌人でもある方のようです。この松に肘をかけて休まれたのでしょうか。

中山道と善光寺街道の分去れに到着しました。安政4年 (1857年) に建てられた大きな常夜燈と、「右 中山道 左 北国往還 善光寺道」と書かれた道標がありました。軽井沢の追分宿から善光寺方面に北国街道が伸びていますが、ここからも善光寺方面に向かうことができ、篠ノ井追分宿で合流します。別名、北国西街道。

こちらの道標はなかなかの年代物に見えます。

洗馬 (せば) 宿に入っていきます。道幅が広く歩きやすいです。雪が降っても除雪しやすそうです。

洗馬宿本陣跡に到着しました。標柱があるのみとなっています。

高札場跡に到着しました。石碑や案内板が置かれていました。

洗馬宿 (31/69) ▶︎ 本山宿 (32/69)

江戸から60里 (約235.6km) の牧野一里塚跡に到着しました。現存しませんが、推定地に石碑が建てられています。

石碑の上には大きな木がありますが、一里塚に植っていたものではなさそうです。

だんだん山地が近づいてきました。木曽路に近づいてきた感じです。

国道19号から分岐した旧道に入ると本山宿です。

たくさんの石碑が並んでいました。左から、秋葉神社常夜燈、道祖神、馬頭観音 x2、南無阿弥陀仏、地蔵尊 x2、南無阿弥陀仏、二十三夜塔、供養塔、庚申塔 x2。

ここ本山はなんとそば切り (麺状に切ったそば) の発祥の地だそうです。そして奥に見える緑の看板が現代の本山に復活したお蕎麦屋さん。ちょうどお昼時で次々と車が吸い込まれていきます。私も車の後を追ってお店に向かいます。

本山そばの里に到着。隣にはそば打名人館と書かれた建物がありました。

お店はたいへん賑わっていましたが、幸い空席がありました。お品書きの表紙には「そば切り発祥の里 中山道 本山宿」と書いてありました。

宿場御膳大盛りを頂きました。このそばは実に絶品、風味も香りもこれまで食べた中で最高でした。そばを生かしたお菓子などもいただき、とてもおいしかったです。

本山宿の本陣跡に到着しました。更地になっていますが、大きな案内板があり、本山宿や中山道の歴史が解説されていました。

本陣跡の隣に消防団と公民館があり、その更に隣に脇本陣・上問屋跡がありました。

高札場跡には秋葉大権現と書かれた石碑と常夜燈がありました。

街道から国道を見上げると本山宿の大きな看板がありました。

本山宿 (32/69) ▶︎ 桜沢 間の宿 (32.5/69)

旧中山道は踏切注意の標識があるこの細道のはずですが、踏切は廃止されてしまいました。踏切の名前は「第2仲仙道踏切」だったようです。左手奥に見える跨線橋で迂回します。

道路の両脇に戦勝記念と書かれた石柱がありました。側面の年数は昭和一?年でしょうか。戦勝というのは日露戦争?だとするとだいぶ時期がずれてしまいますが・・・。

江戸から61里 (約239.6km) の日出塩一里塚跡に到着しました。令和2年 (2020年) に建てられたというピカピカの石碑が置かれていました。案内板には「ここに新型コロナウイルス感染拡大防止・終息を願い、この碑を建て・・・」と書かれています。このような案内板でコロナウイルスの単語は初めて見ました。

国道19号の169kmキロポストには「これより木曽路」と書かれていました。地図によると、この先に木曽路の北端を示す碑があるはずです。

下諏訪から三沢峠、小野宿、牛首峠を経てここ桜沢に至る初期中山道の案内板がありました。中山道が完成した慶長6年 (1601年) から元和元年 (1615年) 頃までは、この道筋が中山道でしたが、その後今日歩いてきたルートに変わったという経緯があります。いずれ初期中山道も歩いてみたいと思います (→2024年に歩きました)。

中部北陸自然歩道の案内図もありました。ちょっと読みづらいです。

左手の脇道を上っていくと初期中山道になるようです。江戸時代はここではなくこの先の木曽路の石碑あたりが入口だったようですが、現代では消失しているためここが入口になります。

ようこそ木曽へと書かれた大きなモニュメントがありました。日本遺産のマークも誇らしげに掲げられています。

「是より南 木 曽 路」の標識がありました。国道19号の本流は2021年11月に全長1,498mの桜沢トンネルが開通したことによりそちらに移り、こちらはほとんど車が通らなくなりました。

「これより南 木曽路」の石碑に到着しました。出来たのは昭和15年 (1940年) とのことです。開戦直前ですね。

木曽路はここから馬籠宿と落合宿の間にある美濃国との国境までの区間を指します。このうち鳥居峠と馬籠峠は去年ハイキングで歩いており、再訪が楽しみです。

洗馬宿あたりから並行していた奈良井川が間近に迫りました。この川は長野市内で千曲川と合流し、やがて信濃川となり新潟で太平洋に注ぎます。なお、江戸時代の中山道は左手の崖の上を通っていたようです。後で知った情報によると、草が多いものの一応現在も歩けるみたいです (→2024年に歩きました)。

桜沢茶屋本陣跡に到着しました。明治天皇櫻澤御小休所と書かれた石碑も建っています。

桜沢 間の宿 (32.5/69) ▶︎ 贄川宿 (33/69)

中部北陸自然歩道の標柱がありました。ガッチリ舗装路なので自然歩道と言われてもピンときません。贄川宿方面に歩を進めます。

2021年11月開通の桜沢トンネルの南端に到達しました。ほぼすべての車がこちらのトンネルを通っていきます。歩いてきた道もしっかりした道路ではありましたが、落石リスクがある上、冬期に雪崩で1日以上も通行止めになったこともあってこのトンネルが掘られたとのことです。

旧中山道はトンネルの下をくぐって沢を渡るようなのですが、どうも様子がおかしくなってきました。

沢にかけては急勾配になっており、今の装備では安全に下りて渡ることは難しかったため、引き換えして国道を迂回しました。仮に下りたとしても、その先上れそうな場所も視認できませんでした。

江戸から62里 (約243.5km) の若神子一里塚に到着しました。国道に対してずいぶん高いところにあります。これは西塚で、国道の拡幅で手前側が切り崩されたようです。東塚は中央本線の建設の際になくなってしまったそうです。

一旦国道を離れ、脇道に進んでいきます。

中畑バス停を塩尻市地域振興バス「すてっぷくん」が通り過ぎていきました。

中部北陸自然歩道の案内板がここにもありました。一言中山道を書き加えてくれてもいいのにとちょっと思いました。

旧道を歩いていて視界がひらけたところでちょうど特急列車が通過していきました。名古屋と長野を結ぶ特急しなの号です。

なるほど、自然歩道らしくなってきました。

柵が傾いているところがありました。ちょっと怖いです。

江戸時代の中山道はここから自然歩道に従って歩くのか、それとも国道に下りるのかちょっと分からなかったのですが、自然歩道のほうが歩いていて楽しそうなのでそのまま進むことにしました。その後木曽観光連盟作成のガイドブック「中山道を歩く」を読んだところ、ここが古い中山道で合っているそうです。ただし、その後中央本線の東側を通過して贄川関所に至る道へと変遷した模様で、そのほとんどが消失し現在は歩けません。ガイドブックでは国道に下りるほうを近似ルートに設定していました。

贄川駅が見えてきました。

ピカピカの除雪車がありました。除雪している姿を見てみたいものです。

贄川駅で飲料補充ついでに一休みしました。とても味のある駅舎です。

ベンチで休んでいたら名古屋行きの特急列車が通過していきました。

塩尻宿や本山宿などで見かけたものと同じタイプの大きな看板が国道沿いに設置されていました。江戸時代はこの奥の線路敷地内に贄川関所があり、女改め、白木改めなどが行われていました。女改めは女性の通行検査、白木改めは材木などの荷物検査です。

贄川宿本陣跡に到着しました。標柱が建っているのみでした。

重要文化財の深澤家住宅に到着しました。行商人の民家で、江戸末期の嘉永7年 (1854年) に建てられたそうです。軒先がいい感じです。

中山道はここで直角に右折、案内看板に書かれたトチの木が気になります。

贄川宿 (33/69) ▶︎ 奈良井宿 (34/69)

跨線橋で線路を跨ぎ、国道に戻ってきたところで大きな木がありました。これが贄川宿の案内板にあったトチの木で、推定樹齢千年とのことです。とても幹が太いです。

木曽路民芸館と書かれた大きな建物がありました。木曽名物の漆器を製造販売している場所のようです。

国道沿いの歩道がどんどん車道から分かれていき、末端は階段になっていました。

階段を超えると雰囲気ががらっと変わって未舗装の歩道になりました。

中仙道と書かれた石碑がありました。

江戸から63里 (247.4km) の押込一里塚跡に到着しました。中央本線と国道19号の建設により塚は現存しないそうですが、石碑と標柱、案内板がありました。

桃岡橋で奈良井川を渡り、中央本線を潜ります。中央本線の贄川駅から奈良井駅の間は単線で、ローカル線のような雰囲気です。

奈良井川の様子、大きく蛇行しています。

諏訪神社に上る手前に松尾芭蕉の句碑がありました。「送られつ おくりつはては 木曽の秋」と刻まれているようです。芭蕉は名古屋から江戸に向かう際に木曽路を通っていて、その際に詠まれたものだそうです。

重要伝統的建造物群保存地区 (重伝建地区) に指定された木曽平沢を説明する大きな案内板がありました。江戸時代から漆器の生産が盛んで、現在でも多くの漆器屋さんがあるそうです。平沢は奈良井宿の枝郷という位置づけで宿場町の雰囲気が感じられるそう。楽しみです。

諏訪神社の参道が中山道になっています。

諏訪神社に到着しました。周囲を木々に囲まれ静かで厳かな雰囲気です。

重伝建地区の木曽平沢に到着しました。見るからに歴史のありそうな漆器屋さんが並んでいます。

歴史を感じさせる建物に緩やかにカーブする道、旧街道の雰囲気満点です。奈良井宿はインバンドにも人気の一大観光スポットですが、ぜひ隣の平沢にも訪れることをおすすめしたいです。

平沢から奈良井宿へ向かう途中、とても美しい木造校舎の学校がありました。楢川小中学校とのことです。校庭もとても広くて、都会の狭い校庭しか知らない私には羨ましい限りです。なお、江戸時代の中山道はこの奥の奈良井川の対岸にあったようで、江戸から64里の橋戸一里塚が奥に現存しているそうです。

橋で奈良井川を渡り、奈良井宿に至る道を進んでいきます。土手に「ならい」の文字がありました。

奈良井駅のプラットフォームはとても長くとられており、さわやかウォーキングの開催時などは特急列車が臨時停車するようです。またこの駅の標高934mはJR東海の中で最も高いそうです。

奈良井駅の駅舎は木造で宿場町の雰囲気に溶け込むようです。半年前の2022年11月にここから鳥居峠を超えて藪原駅までハイキングしたので、ここから先は再訪です。思えばここと馬籠峠のハイキングが中山道を通しで歩こうと思い立ったきっかけでもあります。

奈良井宿の入口に到着しました。夕方5時を過ぎたところで、お店も大多数が閉まり、静かな雰囲気になっていました。

重伝建地区として景観維持のため電柱は地中化されていることもあり、江戸時代にタイムスリップしたかのようです。2階が街道に少しせり出した出梁造りの商店等が立ち並ぶ独特の景観です。ため息が出るほどの美しさ。

予約していたお宿「いかりやまちだ民宿」に到着しました。半年前にここに来たとき次は絶対この奈良井で宿泊したいと思っていたので、こうして実現しとても嬉しくなりました。

ご主人に案内され、街道からの見た目からは想像できないぐらい奥行きのある館内を進んでいきます。館内も綺麗にリフォームされていて快適そうです。

客間の様子。分厚いマットレスが敷かれていました。外国人にもうけが良さそうです。

天ぷら、刺身、すき焼き、煮魚、焼魚と沢山のおかずが並んだ豪華な晩ごはんを頂きました。隣ではカナダから来たというご夫婦も食事を楽しんでいました。日本中を旅した最後にここに訪れたとのこと。こちらの下手くそな英語にも辛抱強く耳を傾けてくださりました。

お風呂はさらに奥にあり、いったいどこまで奥行きがあるのかという感じです。

リフォームのおかげでお風呂も清潔、しっかり汗を流して疲れも癒やすことができ、明日の鳥居峠超えに備えました。

続き中山道六十九次 (8/16) 奈良井→上松