中原街道 (2/3) 中山→寒川

東京の虎ノ門から旧中原街道経由で中原御殿跡・平塚宿を目指すウォーキングの2日目です。全行程のリンクと注意事項、アドバイスなどはこちらをご覧ください

概要

記録

中山駅 ▶︎ 瀬谷 (3/4)

横浜線に乗って中山駅に戻ってきました。朝ごはんを食べ損ねたので、駅前のマクドナルドで腹ごしらえしてから出発しました。

線路沿いの道をたどって中原街道の中断地点に戻ってきました。

県道45号を西進していきます。

左手の脇道が旧道跡のようですが、すぐに県道に合流しました。

長坂に差し掛かりました。ひたすら上っていきます。

雨水調整池の名前から「長坂」を確認できました。名前の通り長い坂道です。

南側に長坂谷 (ながさかだに) 公園が広がっています。

坂道を上り切ったところに長坂谷公園の入り口がありました。なかなか広い公園のようです。

上り切ったあとは下り坂になりました。

古地図と照らし合わせると、左側の歩道が元々の街道跡に近いです。右側に道路を拡張しっていったと推測されます。

中堀川プロムナードと交差しました。

動物園入口交差点に到着しました。右手に目を向けると・・・。

よこはま動物園ズーラシアの案内板がありました。子供の頃に開園したばかりのズーラシアに一度連れて行ってもらったことがあるのを思い出しました。

「山と緑を感じる自然豊かなルート」と書かれた案内板がありました。中山駅から寄り道しながら鶴ヶ峰駅に至るバスと散歩を組み合わせた散策ルートのようです。

県道から左手に分岐する脇道へ進んでいきます。

さきほどのルートのより詳細な案内板がありました。

気持ちのよい緑道を進んでいきます。

県道に合流し、ゆるい坂道を下っていきます。

指差観音道標と書かれた標柱と石像がありました。

正面に彫られている文字は左から「秩父」「坂東」「西国」で、百番観音に関係するもののようです。左側面に指差しマークと「江戸みち」が彫られています。右側にも指差しマークと「かな川みち」が彫られているほか、裏面には道祖神と書かれているそうです。

天明4年 (1784年) に建立されたものだそうです。元々は先ほど通った動物園入口交差点付近にあったものをここに移設したそうです。

先ほどの指差観音道標から少し下ったところにまた石碑があり、横に「日蓮大菩薩天拝碑」と書かれた標柱がありました。

鎌倉時代の弘安5年 (1282年) に日蓮上人が中原街道を通って池上に行ったことを記念し建立されたそうです。中原街道という名前になったのは江戸時代以後ですので、当時は鎌倉街道の中道あたりになるはずです。

都筑郡役所創設之跡と書かれた石碑がありました。明治十一年 (1878年) 十二月二日開庁と添えられています。

石碑は最近建てられたものなのでしょうか。ピカピカです。

御殿橋で帷子川 (かたびらがわ) を渡ります。ここ下川井には徳川家康が中原御殿へ行く途中に休憩所として利用した御茶屋が建てられていた場所で、"御殿" 橋の名がその存在を今に伝えています。

帷子川は隣町の上川井町から流れてくる川で、横浜駅の南側を抜けて東京湾に注いでいます。このドブ川がシーバスの発着するベイクオーター前の大きな川と同一の川というのが浜っ子的には軽く驚きです。

御殿橋を振り返ったところ。車や自転車だと一瞬で通り過ぎてしまう小さな橋です。

道端にコンクリート製屋根付きの石像が鎮座していました。右上の木札には「青面金剛庚申地蔵尊 三猿」と書かれていました。

像の左側には「宝永四丁亥年八月吉日」とあり、宝永4年 (1707年) に建立されたようです。宝永4年といえば富士山の側面で噴火が起き宝永山ができた日になります (→宝永山の登山記録)。

御殿山クリニックの名前も下川井の御茶屋由来でしょうか。資料館の資料によると、実際の御殿 (御茶屋) は御殿橋バス停付近にあったようです (資料には「下川井町345付近」と書かれているものの、添えられている写真が御殿橋バス停付近)。

なかなか古そうな三基の石碑が並んでいました。

標柱によると、それぞれ享保15年 (1730年) の庚申塔、正徳2年 (1712年) の六十六部高顕所、明治4年 (1871年) の神馬祭記念碑とのことです。

保土ヶ谷バイパスの下川井 IC が見えてきました。保土ヶ谷バイパスは横浜新道の新保土ヶ谷 IC と東名の横浜町田 IC を結ぶ無料の自動車専用道路で、交通量日本一の道路としても有名です。

写真では伝わりませんが、ひっきりなしに車が通行しているのが音だけでわかります。

下川井 IC の先から中原街道の古い道筋が残っており、写真左手の階段から入ることができます。入口にはなにやら標柱が。

「旧中原街道」「平塚の中原から江戸の虎ノ門に通じる旧街道」「1590年 家康が江戸入城の時利用した」などと書かれていました。まだ 350m 先に一里塚もあるようです。

階段を上った先は、少々荒れた舗装路になっていました。軽く廃道みたいな雰囲気で、テンションが上がります。

・・・と思ったら、すぐにしっかりした舗装路に変わりました。写真右手は老人向けリハビリ施設になっていました。

急坂が分岐していきました。幸い旧中原街道の道筋は思ったほどのアップダウンはありません。

一里塚跡と書かれた標柱に到着しました。矢指の一里塚跡と呼ばれています。中山の宮下 (現緑区中山町) へ一里、桜株 (現大和市上和田) へ一里とのことですが、江戸からは何里なのかがわかりません。手元の地図で測った限りでは9里ほどでしょうか。

一里塚跡の標柱の反対側には見晴らしポケットパークがあり、東側に広がる二俣川ニュータウンが一望できました。中央の道路の延長線上にひょっこり顔を出している四角い建物はランドマークタワーのようです。

ニュータウン並木道ルートと書かれた案内板がありました。二俣川駅まではここから 3km とのことです。

一里塚のすぐ先には岩船地蔵尊がありました。享保9年 (1724年) に建てられたお地蔵様で、腫れ物・病気全快にご利益があり、別名イボ取り地蔵とも呼ばれているそうです。

県道からは外れた脇道ですが、県道と同じ中原街道の標識がありました。

「追分市民の森 お花畑マップ」と書かれた案内板があり、お花の作付表も載っていました。「追分」といえば街道の分岐点のことを指しますが、この先には中原街道と野境道 (のざかいどう) の交差点があるので、それに由来するものではないかと推測されます。野境道は相模国と武蔵国の国境を通ることから名付けられた街道で、現在は野境道路と呼ばれています。

野境道路との交差点を超えたところに瀬谷区の標識がありました。中山駅から緑区、旭区と歩いてきたので、本日3区目になります。

相鉄線の三ツ境駅と瀬谷駅の間とクロスしていきます。県道に線路をくぐる地下道があったのですが、歩道の地下道も反対側に通じていると知らず踏切へ迂回してしまいました。

三ツ境2号踏切で相鉄線を渡ります。横浜駅から 14.193km 地点。

少し遠回りになってしまいましたが、県道に合流できました。

二ツ橋地名由来の碑と書かれた石碑といくつかの石碑が並んでいました。和歌に二ツ橋と読まれていたことが由来とのことです。説明文の後半には、幕末の文久3年 (1863年) に山名平左衛門義実が建てた二ツ橋学舎があったことも記されています。

左から順に、徳川家康が二ツ橋を詠んだ歌碑、石橋供養塔、瀬谷村と書かれた石碑が並んでいます。

「左 神奈川往来 右 八王子往来」と書かれた最近のものと思われる道標もありました。歴史館の資料によると、ここは厚木街道との交差点でもあるとのことです。
梛の木石碑前と書かれたバス停があり、石碑なんてどこに?と辺りを見回したところ・・・。

石碑、ありました。逆光で見づらいですが、大きな木に抱かれるように鎮座しています。

中原街道の梛の木と書かれた石碑。薩摩国から取り寄せた梛の木をここで育てており、江戸城の大火の際には復興のため良材として提供したそうです。

あまりの暑さと日差しで汗だくになりながら県道を西進していきます。環状4号との交差点が近づいてきました。

環状4号を超えたあたりにいくつかの石碑が並んでいました。一番左側の石碑は1文字目がほぼ消え掛かっていますが、どうやら地神塔と書かれているそうです。そういえばこの近くにあるバス停の名前が「地神前」でした。台座には講中と彫られているのも読めます。右の2基は詳細不明ですが、道祖神でしょうか。

瀬谷 (3/4) ▶︎ 用田 (4/4)

新道大橋で境川を超えていきます。

境川は名前の通り市の境を流れる川で、古くは相模国と武蔵国の境界になっていた川です。現在この地点においては横浜市と大和市の市境になっています。町田市内に源流があり、旧東海道の藤沢宿内を経由し相模湾に注いでいます。藤沢宿での境川の様子は広重の東海道五十三次にも描かれています。

新道大橋を超え、大和市に入りました。県道は幅員減少し4車線が2車線になってしまいました。さっそく渋滞になっている様子です。

4車線化工事を計画しているようです。

道路の北側に4車線化用地が確保されていました。

小田急江ノ島線の桜ヶ丘1号踏切を渡ります。

線路を渡った先に桜株十一面観世音菩薩がありました。

桜株十一面観世音菩薩の由来と書かれた説明板がありました。昭和11年に秋祭兼運動会の帰途の自動三輪車が江ノ島行電車と衝突し11名死亡の大惨事が起きたことから、御霊の冥福を祈るために建立されたとのことです。静かに合掌し旅の無事を祈ったのちウォーキングを再開しました。

代官1丁目交差点に到着しました。とても暑いので右手にある公園で水分補給がてら休憩したのち、写真右手の脇道へと歩を進めました。

物騒な有刺鉄線付きの柵が現れました。柵の向こう側は米海軍と空自の厚木基地になっています。

しばらく基地脇の道路を進んでいると、不自然なカーブが現れました。古地図によると旧街道の道筋は直進ですが、現在では基地の敷地になっています。滑走路が敷設された際に安全地帯を確保するため道が曲げられたのではないかと推測されます。

県道に合流したところで大和ゆとりの森と書かれた大きな公園がありました。気持ちよさそうなので公園を歩くことにしました。ここは立地的に基地と住宅地の緩衝地帯の役割を果たしているようです。

正面に大山が見えました。

北側には厚木基地の滑走路の安全地帯が広がっています。

付近ではヘリが飛んでいたほか、海自の哨戒機らしき機体がタキシングしているのが見えました。

南側を見るととても広い公園であることがわかります。地図上で測ってみると南北方向には 650m ほどありました。なお、このあたりから大和市から綾瀬市に変わり、公園の名前も綾瀬スポーツ公園になります。

気温の高さに強い日差しが相まって頭がクラクラしてきました。コンビニで買った冷凍ドリンクがとても身体に効いている感じがしました。とはいえ今日は長く持ちそうにありません。

春日新道 (かすがしんみち) と書かれた標識がありました。調べると綾瀬市の公募で付けられた愛称とのことです。春日新道の春日とは、「お局様」の由来でもある大奥の春日局 (かすがのつぼね) のことで、かつてこの地に春日局の領地があったことから名付けられたそうです。新道となっている背景は分かりませんが、かつての中原街道の道筋と比較すると一部ずれているので、線形改良の成果として名付けられたのかもしれません。

古地図によると中原街道はこのあたりで右手に進んでいたはずですが、現在では廃棄物処理業者の敷地になっていました。

県道から脇道に入り旧道の跡が残っていないか調べてみることにしました。産廃業者の大きなトラックが行き交う道を抜け、立川橋で蓼川 (たてかわ) を渡ります。

立川橋の先に工事中の看板があり、道筋が続いているのが見えました。しかし奥はどうみても藪の中です。工事中とありますが、実質的に廃道のようです。国土地理院の地図でもすぐ先で行き止まりとなっています。使われなくなった道が自然に還るのは早いものだと感じさせる場所でした。

ファミリーマート綾瀬深谷南三丁目店を過ぎたあたりに3基の石碑が並んでいました。左の石仏は右側面に「天下泰平 相州高座郡」と書かれているように見えます。中央は「堅牢大地神」と彫られており、右側面の記載から慶應3年 (1867年) に建てられたようです。右の石碑は庚申塔と彫られており、左側面には「文化十一年十一月」「南 大山道」、右側面には「北 江戸道」「西 厚木」と書かれているようです。文化11年は1814年にあたります。

右側面の様子、先ほど起こした文字の多くはこの側面から読み取りました。

交差点に大小のピラミッドが建っていました。この奥は大法寺というお寺で、付近にある日蓮聖人ゆかりの遺跡「びわみ堂」にちなんで建てられた「ぴらみ堂」という永代供養塔がこのピラミッドの正体なのでした。

深谷交番前交差点にて、五輪塔を掘った石碑、堅牢大地神、庚申塔の3基セットが現れました。側面の記載から、石碑は宝暦9年 (1759年)、堅牢大地神は文政2年 (1819年)、庚申塔は萬延元年 (1860年) のもののようです。歴史館の資料では4基の供養塔と紹介されていましたが、もう1基は・・・。

これを指しているのでしょうか?これは耕地整理記念碑と書かれています。またこの横には (写真には写っていませんが) 真新しい感じの不動明王像が鎮座していました。

女坂と呼ばれる坂道を上ってきました。緩やかにカーブしています。このあたりが綾瀬市と藤沢市の境界になっています。

女坂の交差点に鎮座しているだいぶ古そうな石碑状の物体、奥には卒塔婆のような木板があり、「南無妙法蓮華経為 佐要坊塚」と書かれているようでした。佐要坊塚はさいほうづかと読むそうです。側面には「右 江戸」「左 一之宮」と書かれているらしく、道標を兼ねていたようです。

藤沢市に入りました。あまりの暑さにフラフラになってきました。

女坂からの下り坂の途中にコメリがあり、少し冷房で涼んで体調を回復しました。

ジムニーミュージアムと書かれた建物と、ガラス張りのジムニーの展示。ジムニー好きが興じてカスタムパーツなどを作り始めたオーナーがついに博物館「ジムニー歴史館」まで作ってしまったということだそうです。

東海道新幹線の線路をくぐりました。そういえば倉見に新幹線の駅を作るみたいな話を聞いたことがありますが、その後どうなったんでしょうね・・・。

新幹線をくぐった先の道端に双体道祖神が鎮座していました。あちこち崩れてしまって「伊藤氏」など一部の文字が読み取れるのみとなっています。

新幹線がまた通過していきました。

用田 (4/4) ▶︎ 寒川

用田交差点を渡ったところに道標がありました。正面に「右 大山道」と彫られているようです。ここ用田は旧東海道の戸塚宿の不動坂から大山へと至る柏尾通り大山道と中原街道の辻にあたるようです。

道端に小さなお稲荷さんがありました。植木屋さんの敷地内のようにみえます。このあたりは造園業者が複数並んでいて風情があります。

用田の町を淡々と進んでいきます。道路の左側はまだ藤沢市ですが、右側は寒川町に入ったようです。ここから右斜めに進んで弧を描く脇道が旧中原街道の道筋という説があり、その説を裏付けるように藤沢市と寒川町の境もここだけ県道ではなく脇道に沿っています。

東小谷交差点を過ぎると寒川町の標識がありました。交差点のアルファベット表記によると、「東小谷」は「ひがしこやと」と読むそうです。

コンビニの向かいに立派な長屋門が現れましたが、説明板などは見当たりませんでした。

これは立派な一里塚!?と思いきや、十三塚と呼ばれる由来不明な塚ファミリーの1つ (写真はNo.5) だそうです。気になります。

頂上の石碑には「無縁諸精霊成三菩薩也 施主 三留未覺」と彫られているようです。

別のところには十三塚 (無縁塚) と書かれた標柱がありました。この地の十三塚はかつて15基あったと推定されるそうですが現存するのは6基のみとのことです。昭和62年 (1987年) の発掘調査では中世後半 (室町〜戦国時代ごろ) に築造されたと考えられることがわかったそうです。

街道沿いに日産工機の本社がありました。日産車のエンジンの多くはここで作られているそうです。

この交差点で中原街道を離脱、寒川駅へと向かうことにしました。

寒川駅に到着。熱中症の症状が出るなかなんとかたどり着けました。

駅前のモニュメント。地元の彫刻家による作品だそうです。