中原街道 (3/3) 寒川→中原・平塚

東京の虎ノ門から旧中原街道経由で中原御殿跡・平塚宿を目指すウォーキングの3日目です。全行程のリンクと注意事項、アドバイスなどはこちらをご覧ください

概要

記録

宮山駅 ▶︎ 寒川神社

前回は寒川駅で中断しましたが、今回はせっかく寒川に行くならと寒川神社に参拝してから街道歩きを再開することにし、最寄りの宮山駅にやってきました。ちなみに道中降りる駅を間違えたりしてスタートが遅くなってしまいました。

宮山駅の様子。Suica の簡易改札機が置かれ、ローカル線の風情です。

寒川町観光案内と書かれた案内板がありました。多数の社寺や公共施設が紹介されています。

寒川大橋で相模川の支流である目久尻川を渡ります。

お地蔵様のほか、たくさんの石碑が並んでいました。

真ん中のお地蔵さんは子育て地蔵と呼ばれているそうです。他は、道祖神、庚申塔、馬頭観世音とのことです。庚申塔は道標を兼ねており、「右なんご 左あつ木・八王子」と刻まれているそうです。「なんご」は茅ヶ崎市の南湖でしょうか。

寒川神社の参道に到着しました。正面の鳥居は三ノ鳥居になります。

昔の一ノ鳥居が飾られていました。

寛政8年 (1796年) に建立された一ノ鳥居で、安政2年 (1855年) の江戸大地震、大正12年 (1923年) の関東大震災の2度にわたり倒壊したそうです。

美しい参道を進んでいきます。

立派な神門がありました。

神門をくぐるといよいよ拝殿です。中原街道の道中は残りわずかですが、ここまで歩いてこれたことへの感謝と、残りの道中の無事を祈りました。

神門をくぐって参道に戻ります。

寒川神社 ▶︎ 寒川駅

参道をひたすら寒川駅方面へと進みます。とても大きなニノ鳥居をくぐりました。

途中から車道の上下線が参道の内側と外側に分割されていました。

上下線が分かれて参道の内側は不思議な感じになっています。

一ノ鳥居の前に相模線の踏切がありました。

一ノ鳥居をくぐって振り返ったところ。寒川神社表参道と書かれた石碑がありました。

寒川駅に到着。そのまま駅前を通り過ぎて中原街道へと向かいます。

前回見たモニュメントにも再訪しました。

寒川駅 ▶︎ 中原

中原街道に戻ってきました。ここから街道ウォーキング再開です。

県道から見た寒川駅方面。側線には架線がなく、保線車両が留置されていました。

丸子橋から共に歩んできた県道45号とはここ景観寺前交差点でお別れです。45号はここから左折し茅ヶ崎方面に至ります。また正面の道は東海道藤沢宿から大山に至る田村通り大山道の経路でもあり、途中まで中原街道の経路と重なります。

松戸橋と書かれた石碑がありました。右側の石碑には大山街道の宿場町として栄えたことなどが記されていました。

浜降祭駐興記と彫られた石碑がありました。寒川神社の宮司の名が刻まれています。寒川神社のお祭りの一つ「浜降祭」について記したもののようです。

さきほどの石碑の前には梶原伝七士の墓があるそうです。すぐ近くのようなので寄ってみることにしました。

石碑と墓跡が並んでいました。

説明板によると、梶原氏一族郎党 (七士) の墓とのことで、鎌倉時代の正治2年 (1200年) に討死してしまった頼朝の家来、梶原景時一族を弔ったものと伝わっています。

このあたりは梶原景時の館「一宮館」があった場所とのことで、その位置関係などが地図で示されていました。

一之宮小入口交差点の手前に鳥居と「梶原景時館跡」と書かれた石碑がありました。

鳥居をくぐると梶原景時館跡の説明板がありました。とても広い敷地になっていたことがわかります。そしてこの奥に天満宮があるようです。

ひっそりと天満宮が鎮座していました。

変わった形の石碑がありました。読むと大正4年 (1915年) に建てられたそうで、「海軍中将」や「尋常一之宮小学校長」などの文字が刻まれています。

角落としと書かれた案内板と、2枚の平べったい板状の石がありました。水流を調節したり、堰き止めたりする装置とのことです。

一之宮小入口交差点からは県道44号から47号に乗り替わっていました。なかなか細い道をフルサイズの神奈中バスが通り抜けていきます。

唐突に一直線の遊歩道と交差。これはもしや廃線跡かも!?と思い調べてみると、案の定相模線の寒川支線の跡とのことでした。1984年に廃線になったそうです。

廃線跡歩きも面白そうですが、今は街道歩きを優先します。

一之宮不動堂に到着しました。お堂の手前には石碑もいくつか見えます。

「大山街道と一之宮不動堂」と書かれた案内板があり、大山街道の案内図と共にこのお堂の由来が書かれていました。大山詣の講社が建てたものだそうです。中原街道も説明されていました。

もう一つの説明板には河原不動尊と書かれていました。この説明板の下にあるのが江戸時代に設置された力石と道標とのことです。

彫られている文字は「左 江戸道」「右 大山道」でしょうか。だとすると作られてから向きが変えられた可能性があります。

河原橋で目久尻 (めくじり) 川を超えます。宮山駅を出てすぐに超えた川と同じ川です。

河原橋から目久尻川の上流方向を眺めた様子。不思議な名前の川ですが、寒川神社の御厨 (みくりや) に由来する説と、悪さをする河童を捕まえて目をくじりとってしまった出来事に由来する説があるとか。

相模川の向こうに大山が見えました。上のピカピカの高架道路は圏央道です。この区間は2013年に開通しました。

河川敷を歩いてみたいと思って下りてみたのですが、背丈のある木や竹、草などに阻まれて行きたい方向に行けません。

大きな釣り堀がありましたが、ここで行き止まり。引き返しました。

何が釣れるのでしょうか。

土手の上を歩こうと思ったのですが、鉄製の柵で塞がれていました。泣く泣く県道に戻ります。

神川橋にやってきました。この大きな橋で相模川を越えていきます。

再び大山が見えました。

神川橋から左岸南側、こんなところに農地が。水かさが増したら水浸しになってしまいそうです。

こんなところに舗装路がありました。

橋の歩道脇に少し張り出したところがあったので、そこから大山方面をもう一枚。写真を撮ってから気がついたのですが、相模川の中でゴムボートを漕いでいる人がいました。

相模川の下流方面。ここから 6〜7km 下流で相模湾に注いでいます。

相模川の上流方面には寒川取水堰がありました。ここで取水した水が寒川浄水場に送られ、平塚市や茅ヶ崎市、逗子市などに送水されているそうです。

神川橋を渡り終えました。相模川の大きな看板がありました。

神川橋から少し下流側に寄り道し、渡し跡に向かいます。

田村の渡し跡に到着しました。草に埋もれかかっていますが、大きな石碑と説明板がありました。

草をよけて石碑を撮影してみました。

阿夫利嶺をまともに仰ぎ旅人ら・・・と綴られた歌碑がありました。阿夫利嶺とは大山のことです。

説明板も草をよけて撮影してみました。中原街道と大山道だけでなく、八王子道についても言及がありました。渡場でもあり、宿場でもあり、景勝地でもあったことがわかります。

県道に復帰、八坂神社の大きなのぼりがありました。

旧田村十字路交差点に到着、十王堂跡碑と書かれた石碑がありました。
説明板もありました。十王堂は、天文6年 (1537年) に相模川で起きた合戦の戦死者を弔うためこの地に建てられたそうです。

「右 大山みち」と書かれた道標。ここは田村の辻と呼ばれ、厚木八王子道との交差点とのことです。中原街道もここから八王子道に乗っかって南に針路を変えます (※私の推定です)。

右側面には「ふじさわ えのしま かまくらみち」とあるそうですが、私には読めませんでした。

「?暦?十二月吉日」「?村講中」などと彫られているように見えますが、はっきりとは判別できません。明暦か宝暦か。

貞性寺は日蓮宗のお寺。道端にこうしたお寺があるとここが古くからの古い道であることを実感できます。

田村駒返橋跡と書かれた石碑と、奥には庚申塔と道祖神がありました。

田村駒返橋跡には説明板もありました。家康が鷹狩に訪れた際、雨で悪くなった道に村人が畳を敷いて便宜を図ったことから、それを慮った家康がここから馬を返したとの伝説があるそうです。

奥の石碑は庚申供養塔と読めます。

田村の一里塚跡に到着しました。道祖神と石碑、そして説明板がありました。

石碑は「南 中原道 北 奥州道 ゑの木処 一里塚跡」と読めます。

説明板はかすれて読みづらくなっています。

石碑は昭和48年 (1973年) 製で割と最近のものでした。

一里塚跡には鹿見堂橋 (ししみどうばし) というバス停が設置されています。この先に鹿見堂都市排水路があり、そこに橋がかかっていました。

四之宮交番前交差点に到着し、国道129号にぶつかりました。平塚から厚木を経て相模原に至る県央を縦断する幹線道路です。ただ、この道から西側は区画整理され、真土地区へ至るとされる旧中原街道の道筋は辿れません。仕方がないのでここからしばらくは現代の道で近似していきます。



交差点を渡ってすぐにある脇道に入って西に進みます。その後、十字路に出るたび左折、右折、左折とジグザグに進みました。

古地図アプリの様子です。明治初期頃の古地図だと北東から南西に道があるのがわかります。これが現代の道だと格子状の道路になっています。

今里自治会館のある交差点に到着したら旧中原街道の道筋に復帰です。ここに中原街道の石碑がありました。左の石碑は令和元年 (2019年) に建てられたもので、こちらも同じ方による建立であることから、同じく割と最近建てられたのでしょう。

黒いほうは令和元年製と記載あり、水戸光圀公礼状受領記念碑と書かれています。地元の研究会の方が建てられたそうです。

先ほどの石碑から真土 (しんど) 神社方面に伸びるこの道が旧中原街道の道筋となります。歴史館の資料にあった写真と全く同じアングルになるように写真を撮ってみました。

道端に少し変わった形の庚申塔がありました。

少し読みづらいですが、嘉永3年 (1850年) でしょうか。下のほうには「あつぎ」と彫られているようにも見えます。

真土神社参道に到着しました。側面には古道中原街道とも記されています。

参道の向かい側には大きな「古道 中原街道」碑がありました。中原街道のシンボル的存在といっても良いかもしれません。

古道中原街道と書かれた説明板には、大磯から中原を通り真土・用田・小杉を経て江戸に入り、さらに奥州へ至る古道が通っていたことが記されていました。また中原街道で最も良く昔の面影を残しているのがここ真土地区であるといわれているそうです。

こちらは真土大塚山神獣鏡の碑。古墳から出土した鏡について記されていました。

真土神社にお邪魔しました。とても美しい社殿と境内です。

立派な鐘楼が目に止まりました。

宮鐘と鐘楼の由来と書かれた説明板がありました。宮鐘は昭和36年 (1961年) 鋳造の4代目、鐘楼は江戸時代の中頃に作られ、大正6年 (1917年) にここへ移築されたそうです。

真土神社の美しい社殿の様子。

振り返ると、参道の先に大山が見えました。

令和元年奉祝記念碑と刻まれたピカピカの石碑がありました。

旧中原街道の道筋の一部は第一三共の医薬品工場になっており、敷地の外側を迂回しながら近似していきます。

旧道の道筋に復帰、中原上宿の道祖神がありました。平成29年 (2017年) 建立とあり、先代の石碑は近くの日枝神社に移設されたそうです。

一里塚公園と名付けられた小さな公園がありました。ただし公園内には手掛かりはありませんでした。

公園から十字路を超えた先の電柱の影に中原街道一里塚跡の標柱がありました。

この場所の道の両側に塚があったそうですが、現存しません。

十字路を左折し、いよいよ江戸時代の中原の中心街へと入っていきます。

谷川橋の跡と書かれた案内板がありました。以前はここに排水路が流れており、中原街道上に橋が架かっていたとのことです。

(江戸時代の) 幹線道路から中原御殿方面へ分岐する道の角に高札場跡がありました。

説明板には御殿とその周辺の絵があり、絵の下部分を左右に走る道が中原街道、その左側から上に分岐し四角い敷地に向かう地点が現在いる場所かつ高札場があった場所というわけです。街道から中原御殿へと分岐する道は大手道と呼ばれていたそうです。

中原御殿に到着しました!ここが中原街道としてのゴールといえます。大きな石碑と説明板がありました。

中原御殿跡は現在小学校になっていますが、体育館建設に伴う発掘調査が行われ井戸跡などの遺構が見つかったそうです。また御殿の裏門が近くの善徳寺の山門になっているそうです。というわけでそちらも見に行くことにしました。

消防団のシャッターに中原御殿の絵図が大きく描かれていました。御殿が堀で囲まれていたことなどがわかります。奥には富士山も書き込まれています。

南原鍛冶町・横宿の道祖神、船乗地蔵と石祠が並んでいます。

中原御殿の裏門を移築したものと伝わる善徳寺の山門に到着しました。茅葺屋根に歴史を感じます。

善徳寺は浄土宗のお寺で、江戸時代よりも前からあったそうです。

中原御殿の跡地に立つ中原小学校の様子。この後は先ほどの高札場跡まで戻り、そこから明治初期の古地図を頼りに中原下宿、豊原町、豊田道を経由し旧東海道の平塚宿本陣まで歩くことにしました。

中原 ▶︎ 平塚宿 (東海道 7/53)

慈眼寺の角にある道祖神。ここから南側に伸びる道に進みます。

六本交差点に相州中原富士之碑がありました。江戸時代は富士山も臨める景勝地だったことが伺えます。

隣にある中原之碑では、中原の由来が記されているようです。

富士見町公園にて、お祭りが開催されていました。

平塚宿本陣旧跡に到着、これにて中原街道ウォーキング完了です。東海道五十三次でここ (平塚宿) を通った記録はこちらにあります。今回、情報が少ない旧中原街道をさまざまな資料を当たりながら道筋を探して歩けたのは良い経験になりました。今後の街道歩きにも活かせそうです。

本陣跡の近くにある豊田道バス停からバスで平塚駅に向かいました。

平塚駅到着後、冷たいおそばと鯵の押寿司を食べました。今日も蒸し暑くてたくさん汗をかいてバテたので押寿司の塩分が身体に染み渡りました。

ここまでご覧いただきありがとうございました!

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