中山道六十九次 (8/16) 奈良井→上松

東京の日本橋から旧中山道経由で京都の三条大橋を目指すウォーキングの8日目です。全行程のリンクと注意事項、アドバイスなどはこちらをご覧ください

概要

記録

奈良井宿 (34/69) ▶︎ 鳥居峠

いかりやまちだ民宿の朝ご飯は朝7時に用意してもらいました。旅人も大満足のボリューム。

木曽の大橋に寄ってみました。奈良井川にかかる大きな木造太鼓橋で、木曽路のシンボルの一つです。木材の名産地であるここ木曽のヒノキを贅沢に使っています。

木曽の大橋の頂上部分、実際に渡ってみると傾斜は見た目以上に感じます。

(2022年11月訪問時の写真)
紅葉シーズンだとこんな感じになります。

橋の裏側の木組みも見事な美しさです。

奈良井宿の町並みに戻ってきました。現在朝8時すぎ、観光客もほとんど見当たりません。

(2022年11月訪問時の写真)
天気が良いとより写真映えする感じがします。

ズームで圧縮した写真も撮ってみました。

レトロな郵便ポストがいい味を出しています。江戸時代にはこんな色のポストはないわけですが、そんなツッコミも野暮かもしれません。

線路沿いには SL が展示されていました。C12型199号機。

この SL は戦前の昭和13年 (1938年) に日本車両の蕨工場でで製造されたとあります。山形、飯山で活躍したあと木曽路にやってきたとのことです。引退は昭和49年 (1974年) とのこと。

鎮神社の手前に高札場がありました。枠からはみ出て掲示されている札があるのはなかなかレアかもしれません。

鎮神社に到着しました。宿内に蔓延した疫病が鎮まることを願って建てられたことから鎮神社という名前になったそうです。道中の無事とともにコロナウイルスが鎮まることを祈願しました。

鎮神社の本殿、太い梁には模様が彫ってありました。

お参りを済ませたらいよいよ鳥居峠に向かいます。右手の階段が旧街道です。

少し上ったところから奈良井宿を一望できるところがありました。名古屋行きの特急しなの4号がやってきたところをパシャリ。

綺麗に積まれた石畳が現れました。ここを上っていきます。

木橋を慎重に渡ると休憩所がありました。

江戸から65里 (255.3km) の鳥居峠一里塚跡に到着しました。塚は風化か何かで現存しないようですが、推定値に石碑と案内板がありました。

落ち葉がクッションになり気持ちよく歩くことができます。

まもなく峠の頂上ですが、雪が残っていました。すべらないように気をつけながら進みます。ただ、持ってきたチェーンスパイクを使うほどではありませんでした。

半年前はこの「↖峠」を見落としてしまい、右の堀割りの道を歩いていました。今回はしっかり峠の最高地点を目指します。

「明覺霊神」と書かれた石碑がありました。案内板には「御嶽講 明覺霊神碑」とありました。御岳 (おんたけ) 信仰の講社が建てたとのことです。

「明覺霊神」の右には「北陸道開山」、左には「社中建之」と書かれているようです。

鳥居峠の碑に到着しました。令和元年 (2019年) に建てられたとのことでピカピカです。標高1197mとも書かれています。

鳥居峠碑の右側には「NPO法人 木曽川 水の始発駅」と彫られていました。

明治天皇駐蹕所碑と書かれた石碑がありました。駐蹕はちゅうひつと読むそうです。

鳥居峠 ▶︎ 薮原宿 (35/69)

細い山道からやや広い道に下りてきました。中山道はここでぐるっとターン。わかりやすい道案内があり助かります。

足元にも中山道の道順が書き込まれていました。直進してしまう人が多いのかもしれません。

半年前歩いた道に戻ってきました。熊よけの鐘を鳴らして先に進みます。

子産みの栃、ここで捨て子を拾って育てた伝説があるとか。

御嶽神社に到着しました。鳥居をくぐって参拝します。鳥居峠の名前の由来である鳥居は、木曽義元が戦勝祈願でこの峠から御嶽山を遥拝し、その後戦勝したことからこの峠に建てた鳥居に由来するとされますが、ここ御嶽神社も御嶽山信仰の講社が建てたもので、関連がうかがえます。

御嶽神社の社殿。右手には石碑が並んでいます。

たくさんの石碑と休憩ベンチ。天気が良ければ御嶽山も見えるのですが、残念ながらガスっていてはっきり見えませんでした。

(2022年11月訪問時の写真)
前回訪問時は山脈の先に御嶽山のさきっちょが見えました。

石碑の内訳は松尾芭蕉らの句碑や記念碑とのことです。

下る途中に展望台があり、これから向かう先である藪原方面を一望できました。山に囲まれた木曽らしい景色です。町の横を流れる川は鉢盛山や御嶽山方面から水を集めた木曽川で、鳥居峠一帯が日本海に注ぐ信濃川水系と太平洋に注ぐ木曽川水系を分ける分水嶺になっていることがわかります。

中山道に林道が重なって三叉のように見えますが、中山道はど真ん中を直進です。一部石畳になっていました。

標高1,000mの目印がありました。鳥居峠から200m近く下りてきたことになります。

中央本線の線路脇まで下りてきたところに葛沢の大橋という案内板がありましたが、現在はほぼ道路に溶け込んだ小さなコンクリーの橋になっていました。なお、ガイドブック上の中山道はガードで線路を潜りますが、少し手前の跨線橋で線路を跨いだほうが江戸時代のルートにより近くなります。

藪原宿に到着しました。宿場町らしい街並みです。

本陣跡の標柱と案内板がありました。

文久元年 (1861年) には皇女和宮もここに宿泊されたそうです。

高札場跡、レトロな郵便ポストがありました。

薮原宿 (35/69) ▶︎ 宮ノ越宿 (36/69)

歩いてきた道を振り返ったところ。中山道は左手の細い道ですが、右からきた道とここで合流します。

江戸から66里 (約259.2km) の藪原一里塚跡に到着しました。大型の SL が展示されています。

SL の手前にある一里塚跡の石碑と案内板。石碑には「江戸より六十六里 京へ七十里」とも刻まれていました。中山道の中間地点にも今日中に辿り着きそうです。

展示されている SL は D51型238号機です。昭和14年 (1939年) に北海道の国鉄苗穂工場で製造され、東海道本線や中央本線などで活躍し、昭和48年 (1973年) に引退したそうです。

SL や一里塚の石碑以外にも様々な記念碑等がありました。

こちらのかわいい車両は、材木運搬や林業関係者の輸送のために敷設された木曽森林鉄道のモーターカーとのことです。木祖村郷土館の前に展示されています。

お尻のドアから乗り降りする仕組みになっていました。観光地として整備された赤沢自然休養林に行くと、動態保存された兄弟車に出会えるそうです。

中央本線をくぐった先からは未踏区間です。写真は左手から出てきて右折して振り返ったところです。写真の正面に進むと藪原駅ですが、今回は駅には寄らずに中山道を進みます。

藪原駅を抜けた先の線路沿いを歩いていると、名古屋行きの特急しなの8号がやってきました。カーブを曲がる際にコンピューター制御で車体を傾けて遠心力を打ち消す「振り子式」の車両で、路盤の傾き以上に内側に傾いている様子を捉えることができました。

木曽川が迫ってきました。中山道 (国道19号) は左岸をキープしていますが、中央本線は一旦右岸に移りました。江戸時代の中山道も右岸だったようですが、現在は消失していて歩けません。

名古屋まで150kmのキロポストがありました。中山道は恵那で国道19号と分かれるので名古屋には行きませんが、あの辺に行くにはあと4〜5日かぁなどと考えるきっかけになります。

吉田洞門を通ります。落石や雪崩から道路を守るもので、歩道にも屋根がついています。中山道の古道はこの左手の斜面の上にあり「わせぐり坂」と呼ばれていたそうですが、現在はほとんど消失して歩き通すことはできないそうです。

吉田洞門からの眺め、地形に合わせてカーブしています。箱根の函嶺洞門を思い出します。

時刻は11時45分、ちょうどいいところに権兵衛という焼肉屋さんがありました。朝から峠越えをしてお腹がぺこぺこなので、迷わず入店。

なんと、馬肉と豚肉のミックス焼肉定食があったので注文してみました。

卓上の七輪で炭火焼肉を楽しむことができます。久しぶりに馬肉を食べましたが、焼いてみると牛肉みたいでとっても美味しかったです。

江戸から67里 (約263.1km) の吉田一里塚跡に到着しました。石碑と案内板が置かれています。案内板の文字が手書きでちょっとかわいい感じなので左下に目をやると、地元の女子中学生が書いたようです。とても綺麗で読みやすい字ですね。

おっと、トンネルがありました。全長334mで山吹トンネルという名前だそうです。こういう地方のトンネルは狭くて歩道がなかったりして通るのが怖かったりしますが、幸いここのトンネルは歩道がしっかり確保されており、安心して歩くことができました。このトンネルを抜けた先の左手には、木曽山脈の向こう側の伊那谷方面へ全長4,470mの権兵衛トンネルでワープできる国道361号「伊那・木曽連絡道路」が伸びているようです。

宮ノ越宿が近づいてきました。道中何度も見てきた大きな宿場の看板がまたありました。なお、江戸時代の古道はここよりも右手にあったようですが、現在は微かに跡を残すのみで歩くことはできないそうです。

木曽川沿いに進んだ先に巴淵と書かれた石碑がありました。右手に休憩所があり、しばし川面を眺めながら休憩しました。

「伝説の残る巴が渕」と書かれた案内板がありました。ここに住む龍神が化身した伝説の美女巴 (巴御前) が水浴をした地とのことです。

巴淵にかかる巴橋で再び木曽川を渡ります。

巴橋より木曽川下流方向、雪解け水で水量が増していました。

巴橋より木曽川上流方向、奥の橋は中央本線です。

葵橋の手前にて、「義仲や 葵巴に山吹も 恋に憧れ 木曽川のはし」と刻まれた石碑がありました。木曽義仲 (源義仲) の妻妾とされる葵御前、巴御と山吹御前について歌にしたもののようです。

現在位置が葵ばし公園、奥が木曽川と葵橋です。中山道も橋を渡って再び木曽川左岸へと移動します。

少し川幅が広がりましたが、相変わらず流れが急でした。

宮ノ越宿の本陣に到着しました。扉は空いていますが、残念ながら閉館中でした。なお、建物一式は明治16年 (1883年) の大火で消失してしまったとのことです。

田中家住宅。大火にのまれる宮ノ越宿から救出された建具などを用いて再建された建物のようです。

屋根付きの立派な井戸があり、明治天皇宮ノ越御膳水とかかれた石碑もありました。江戸末期から昭和初期まで飲料水として使われていたそうです。明治天皇行幸の際にはここの水で点てたお茶を献上されたとか。

宮ノ越宿 (36/69) ▶︎ 中山道中間地点

江戸から68里 (約267.1km) の宮ノ越一里塚跡に到着しました。ここの案内板も地元女子中学生の手書きになっていました。とても美しい字体です。

石碑には「宮ノ越 一里塚跡」と彫られていました。なお、宮ノ越一里塚は資料によっては樋口一里塚とも紹介されています。

第5仲仙道踏切で中央本線と交差します。奈良井宿の手前の踏切は奈良井道踏切だったので、第4仲仙道踏切は消失したのか、あるいは奈良井道踏切の元の名前が第4仲仙道踏切だったのかもしれません。

トイレを借りるため原野駅に立ち寄りました。しっかりした駅舎ですが、無人駅で少し淋しい感じです。上り線と下り線の乗り場がだいぶ離れているようで、案内看板がありました。

たくさんの石碑が集まっている場所がありました。原野の石仏群と呼ばれているようです。手前に像が、奥に文字碑が集められていました。

ついに、中山道中間点に到着しました。この地点が江戸からも京都からも67里28町 (約266.2km) とのことです。町は里よりも小さい単位で、1里=36町です。先ほどの宮ノ越一里塚が68里目だったはずなので、一里塚は少しずれているのかもしれません。

「中山道 中間地点」と書かれた石碑がありました。奥には中山道と書かれた丸太の椅子のようなものもありました。

石碑の左側面には「京へ 六十七里二十八町」と刻まれています。

石碑の右側面には「江戸へ 六十七里二十八町」と刻まれています。


中山道中間地点には水神の石碑も置かれていました。

中山道中間地点 ▶︎ 福島宿 (37/69)

中山道中間地点を無事通過し、京都へもう半分を歩いていきます。途中、脇道に進んでいくところがありました。

「石造 駒石」と書かれた案内板と、奥に立派な石碑がありました。駒石氏は地元で学者として活躍された方とのことで、天明の飢饉の際には餓死者を出さないように様々な取り組みを推進し貢献されたそうです。

なんと、中山道はここから舗装路の脇に下りていくようです。本当に合っているのか不安になりながら、本日2回目 (鳥居峠以来) の未舗装路歩きです。

草道を抜けたところで、あっさりとした人道橋がありました。この橋を通って正沢川という小さな川を渡ります。

欄干が低いですが、橋自体はしっかりしていました。安心して渡れます。

正沢川上流方面。木曽山脈を水源としています。巨石がごろごろしています。

正沢川の下流方面。この先で木曽川と合流しているようです。

橋をわたり終えたところ。しっかり中山道と書いてあります。

手習神社の入口付近に廿三夜 (にじゅうさんや) と書かれた大きな石碑がありました。江戸後期に流行った二十三夜信仰によって建てられたもの。

手習神社の入口には薬師堂と書かれた小さな建物もありました。

手習神社の鳥居と、奥に社殿がみえます。案内板には手習天神と書かれていました。木曽義仲 (源義仲) の養父が学問の神として北野天満宮を迎えて建てた神社とのことです。

「中山道ウォーキングの方へ」と書かれた案内板がありました。江戸時代の中山道は直進のようですが、案内に従って左手の坂道を上って跨線橋で線路を跨ぎます。

コンクリートで出来た水路が勢いよく大きな建物に吸い込まれていきます。これは水力発電所の新開発電所とのことです。この奥が急な下り斜面になっていました。

江戸から69里 (約271km) の出尻一里塚跡に到着しました。ここの案内板も地元女子中学生の手書きのようですが、若さを感じさせない見事な達筆ぶりです。ここから草道の旧道が伸びていて、かなりの急坂を下りました。「おと坂」と呼ばれているようです。

自動車修理工場の裏手が旧街道になっていました。公道なのかちょっと怪しい雰囲気です。

高いところに中央本線の線路がありました。橋脚がなかなか味があります。このあたりは複線ですが上下線が大きく分かれており、地図で見るともう一つの線路は長いトンネルになっています。もともとはこの線路を使った単線だったようです。

経塚と芭蕉句碑と書かれた案内板がありました。句碑は案内板の左手にあるもので「おもい出す 木曽や四月の さくら狩り」と書かれているそうです。

木曽川のすぐそばまで戻ってきました。建物の密度もだいぶ濃くなってきて、いよいよ木曽福島の中心街が近づいてきた感じです。

道の先にある大きなゲートは・・・関所門!?

関所門のオブジェのようです。この奥に福島関所跡がありそうです。

木曽福島関所跡に到着しました。発掘調査をもとに一部復元されています。

史跡 福島関跡と書かれた石碑。左手は更地になっていました。右手の建物は資料館。

無事に関所を通過し、池井坂を下って福島宿の中心街へ進みます。

嬉又橋と書かれた大きな碑と案内板がありました。この地を治めた当主が作ったそうです。

福島宿の高札場に到着しました。少し縮小して復元されているそうです。

高札場から一旦中山道を離れ、川沿いにある本町親水公園足湯に立ち寄りました。無料で入ることができ、しかも二本木の湯という温泉です。木蓋で蓋をしてあるので、入るときだけ蓋を外して足を入れる形式です。昨日は塩尻峠、そして今朝は鳥居峠を越えてきたので足もだいぶ疲れてきていたのですが、ここで一気に回復しました。

足湯からは行人橋という人道橋がよく見えました。木で出来た欄干が美しいです。

中山道に戻り、福島宿の「上の段」と呼ばれる地区に到着しました。半年前に木曽福島駅からここまで散策しているので、ここからは駅までは再訪になります。古い町並みが復元・保存されとても美しいです。

レトロな郵便ポストもいい感じです。復元・保存されているこの「上の段」だけ見ると規模が小さく重伝建地区でもありませんが、電柱も地中化され重伝建地区と遜色ない景色に思います。

(2022年11月訪問時の写真)
前回訪問時は奥にある用水も写真に収めていました。戦国時代に引かれた用水が今も流れています。

こちらは江戸時代の中頃に造られたとされる井戸で、中山道をゆく旅人の喉を潤していたそうです。

福島宿 (37/69) ▶︎ 上松宿 (38/69)

福島宿を後にし、坂を上って木曽福島駅に到着しました。夕方4時すぎで帰路についても良いところでしたが、足湯で足の疲れも回復し身体もまだ歩けそうなので、次の駅まで歩くことにしました。

木曽町役場の脇から伸びる細い道を進みます。駅や役場は高台にあるため街を見下ろすような形ですが、ここからだんだんと下っていきます。

「ここは塩渕です」と書かれた案内板がありました。塩を運んでいた馬が木曽川の渕に転落し塩をまいてしまったことから塩渕という地名になったと伝えられているようです。

江戸から70里 (約274.9km) の塩渕一里塚後に到着しました。石碑と標柱が置かれていました。

京へ六十七里、江戸へ七十里と書かれているようです。

突然真っ暗なトンネルが出現しました。YAMAP の街道地図やガイドブックを見てもこの道で間違いなさそうなのですが、入口には通行止の看板も置かれています。幸いナイトハイク用ヘッドライトも持っていたので、安全に行けそうなところまで行ってみようと突撃することにしました (真似しないでください)。もしこのページを参考に現地を歩かれる方がいましたら、JA木曽のところから旧道に入らずそのまま県道を進んでください。もしここまで来てしまったら、JA木曽まで引き返すか、左手に伸びる峠道を歩く必要があるでしょう。

トンネルに入ってすぐに出口の光が見え、150m ちょっとで出口につきました。写真は振り返ったところ。後で調べたところによると、このトンネルは中央本線の廃線跡とのことです。

トンネルから先は道がだいぶ荒れていました。倒れた竹などを乗り越えながら進んでいきます。半袖や半ズボンなど軽装では危険な感じです。やはりここを通ることは全くおすすめできません。また通ったのが3月だったからこの程度で済んだのかもしれず、草木が成長した夏や秋ではもっと悪い状態になっているかもしれません。なお、この荒れた道をしばらく進むと、途中から峠を下りてきた道と合わさり舗装路になりました。

国道に合流するところで振り返ると「この先通行できませんので、国道19号線沿いをお進みください」との案内板がありました。江戸方にも設置してもらえると助かります・・・。

国道に合流したあと、再び脇道に入りました。猫がたくさん集まっているところがありました。

御嶽山遥拝所と書かれた案内板がありました。奥には鳥居も見えます。鳥居峠の御嶽神社と同じく御嶽山が見える場所ということで建てられたようですが、現在は御嶽山の眺望はないようです。

再び国道に合流、名古屋まで133kmのキロポストがありました。

そしてまた脇道へ。

脇道の先には草道があり、中央本線の線路の真横を通っていました。近すぎて心配になるぐらいです。

江戸から71里 (約278.8km) の沓掛一里塚に到着しました。現存する南塚は、下ってきた坂の途中の脇にある沓掛馬頭観音が建っている場所とのことです。あまり一里塚感がなく写真を撮りそこねてしまいました。

よく見ると石碑の左に「右坂上に在り」と刻まれています。位置関係から察すると、江戸時代の中山道はこの石碑のある国道と線路の間にあったということになります。

木曽の桟 (かけはし) と呼ばれる名所に到着しました。江戸時代は丸太を組んでできた桟 (さん) のような道が写真左下あたりから伸びていたようですが、現在は赤い大きな橋が掛かっています。橋の先には桟温泉旅館があり、日帰り入浴もできるそうです。

橋をアップで撮ってみました。

木曽川沿いに国道を進んでいきます。このあたりは江戸時代の中山道の痕跡がなく、ガイドブックでは右岸道路を案内しています。

坂を上っていく脇道がありました。中山道の標柱もあるので、そちらに進んでいきます。

車道との高低差が広がってきました。ちなみにこの先分かれ道があるのですが、間違った方向に進んでしまい、中央本線の線路脇で行き止まりになっていました。引き返して分かれ道まで戻りましたが、日没も迫るなか貴重な時間をロスしてしまいました。ただ、江戸時代の中山道は一旦線路の東側に達していたそうなので、もしかしたらその一部だったのかもしれません。

分かれ道から先は半分草道のような感じになっていました。無事に車道に合流できました。

国道と合流するところで車道と歩行がまた分かれたので進むと、長坂地下横断歩道と書かれたピカピカの地下道がありました。

中山道 (迂回路) と書かれているのがちょっと気になりますが、とりあえず進みます。

国道を180mほど歩いた先に赤沢自然休養林の案内板がありました。なお国道には歩道がなかったので、木曽川右岸に迂回するのが推奨されているみたいです。

上松 (あげまつ) 宿北入口と書かれた案内板に到着しました。ここに高札場があったそうです。

すっかり陽が落ちてしまいましたが、上松宿の中は栄えており明かりが多いです。

江戸から72里 (約282.8km) の上松一里塚跡に到着しました。案内板には水町一里塚跡とあります。

一里塚跡碑の様子。「中山道上松宿 一里塚の跡 京へ六十五里 江戸より七十二里」と彫られています。

広小路交差点に到着。ここで中山道を離れ、上松駅に向かいます。

24時間営業の冷凍食品販売店がありました。電子レンジも完備。駅前の飲食店がどこも空いていないので大変助かりました。温かいハンバーガーを頂きました。

駅前に到着しました。隣の木曽福島駅から営業キロで7.2kmも離れています。赤沢自然休養林の大きな看板が建っていました。

太郎ちゃん美林ちゃん、上松町のマスコットとのことです。織姫彦星な関係でしょうか。

郷土特産品展示コーナー。檜で作った桶や工芸品が見事です。

上松駅の駅舎内の様子。有人駅ですが、この時間は無人になっていました。このあと松本行の普通列車と特急あずさを乗り継いで帰宅しました。