東海道五十三次 (2/18) 横浜→大磯
東京の日本橋から旧東海道経由で京都の三条大橋を目指すウォーキングの2日目です。全行程のリンクと注意事項、アドバイスなどはこちらをご覧ください。
概要
- 活動日: 2023年10月28日
- 歩行距離: 41.0km
- 獲得標高: 🔺354m 🔻343m
- 出発: 04:52 横浜駅
- 到着: 15:53 大磯駅
- 合計時間: 11時間00分
- 休憩時間: 1時間40分
- 旧街道足跡マップ: https://kaidotrail.github.io/tokaido.html
- ヤマップ活動記録: https://yamap.com/activities/27775599
記録
横浜駅▶︎ 保土ヶ谷宿 (4/53)
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| 始発電車に乗って午前5時前の横浜駅にやってきました。前回は半分酔っ払っていたこともあり 34km とあまり距離は伸びなかったので、今回は 40km 超えを目指していきたいところです。 |
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| 上台橋に戻ってきました。ここから街道歩き再開です。 |
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| 浅間神社の鳥居がありました。街灯もあって暗くても参拝しやすそうです。お邪魔します。 |
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| 拝殿に到着。道中の無事を祈願しました。 |
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| みなとみらい方面が綺麗に見えました。 |
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| 東海道と八王子道の追分 (おいわけ) に到着しました。ここから八王子方面に道が伸びており、横浜開港後は絹が運ばれるようになったため「絹の道」とも呼ばれているそうです。並行する国道16号の横浜以西は八王子街道と呼ばれており、現代にも名称が受け継がれています。 |
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| 江戸方見附跡と書かれた説明板がありました。ここが保土ヶ谷宿の東の入口ということですね。京方の上方見附まではなんと 2km もあります。 |
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| 天王町駅の真下を旧東海道が貫いており、改札口になっていました。 |
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| 通り抜けて振り返ったところ。 |
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| 保土ヶ谷宿の案内図がありました。途中で北東から北西へと折れ曲がっていて、そのあたりに本陣跡があるそうです。 |
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| 旧東海道を示す案内板がありました。本陣跡まで 1km。 |
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| 本陣跡まで 500m。 |
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| 問屋場跡と書かれた説明板がありました。人馬継立や継飛脚などを担っていた江戸時代の物流拠点です。 |
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| 高札場跡の標柱がありました。法令等を記した高札を掲げたいわば掲示板ですが、荷物の運賃や旅籠屋の宿泊料なども掲示されていたとのこと。 |
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| 金沢横丁と書かれた石柱に「かなさわ・かまくら道」とも書かれていました。道標四基まで 8m とありますが、歩いたときは見落としていました。残念。 |
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| 旧東海道と交差するJR東海道線の踏切、その名も東海道踏切。 |
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| 交差点の奥に古そうな門と建物がありました。これが本陣跡のようです。 |
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| 本陣跡の説明板がありました。奥の門はその通用門のようですが、説明板には言及はありませんでした。 |
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| 脇本陣跡もありました。ここは3軒あった脇本陣のうちの1つだそうです。 |
保土ヶ谷宿 (4/53) ▶︎ 戸塚宿 (5/53)
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| ここから脇道に入ります。一里塚跡は道路の反対側にあったので訪問を諦めました。 |
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| 旧本町橋跡と書かれた標柱がありました。江戸時代は今井川をこのあたりで跨いでいたそうです。現在の本町橋はここから 300m ぐらい先にありました。 |
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| 権太坂の入口にやってきました。ここで斜めに分岐する急な坂道を上っていきます。なお、箱根駅伝の2区の難所である権太坂は旧道より南側を通る国道1号のほうの坂になります。 |
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| 旧東海道権太坂改修記念碑がありました。横浜市長の名前も彫られていました。 |
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| 横横道 (横浜横須賀道路)、保土ヶ谷バイパス、横浜新道、首都高 K3 狩場線を接続する狩場 JCT の上を通過していきます。車で運転していると分岐・合流が連続するちょっと緊張するポイントです。 |
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| 権太坂を上り切ったところに石碑と説明板がありました。権太坂の名前は、旅人が老齢の農民に坂の名前を聞いたところ聞き間違えられたのか「権太」と自分の名前を答えられたことに由来するそうです。 |
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| 少し進んだ先にある案内板には、権太坂の由来の別の説として、道を開拓した権左衛門に由来する「権差坂」がなまった説が唱えられていました。 |
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| 丁字路を右折します。まもなく境木。 |
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| 境木立場跡に到着しました。大きな木が植っており、その手前に説明板がありました。 |
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| 牡丹餅 (ぼたもち) が有名な茶屋があり、参勤交代の大名も茶屋を利用したそうです。 |
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| 境木地蔵尊にはお堂とお地蔵様が鎮座していました。 |
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| 境木のモニュメント。ここは武蔵国と相模国の国境の地で、境木の名の由来でもあります。 |
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| 焼餅坂を下っていきます。坂を往来する旅人に焼餅を売っていた茶屋があったそうです。 |
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| 江戸から9里 (約35.3km) の信濃一里塚に到着しました。神奈川県内唯一の両塚現存で、旧東海道全体でも片手で数えるほどしかない大変貴重な一里塚です。写真は西塚の様子。 |
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| 説明板の様子。分間延絵図にも記されていることがわかります。 |
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| 東塚の様子。道路が掘り下げられたようで、塚との高低差が大きくなっているようです。 |
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| 信濃坂を下っていきます。 |
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| 車道は右手にカーブしていますが、旧東海道の道筋はこの階段のようです。説明板には、江戸から1日で戸塚宿を目指す人には最後のきつい下り坂、江戸を目指す人には最後のきつい上り坂と紹介されていました。 |
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| 歩道橋で環状2号を渡ります。案内標識に書かれているこの先の国道1号との交差点は平戸立体といい、渋滞や事故の頻発ポイントとして地元ではちょっぴり悪名高い場所です。 |
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| 提灯立場跡と書かれた標柱がありました。戸塚宿まであと一息。 |
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| 立派なレンガ造りの建物がありました。しかし案内らしきものは見当たりません。 |
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| 後で調べたところ、これは鎌倉ハムの倉庫だそうです。 |
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| 戸塚宿の江戸方見附跡に到着しました。石碑と標柱、説明板が設置されていました。ここが戸塚宿の北の入口ということになります。 |
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| 江戸から10里 (約39.3km) の吉田一里塚跡に到着しました。塚は明治期に道路拡張で消失したそうです。標柱と説明板が立っていました。 |
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| 広重の東海道五十三次の戸塚の様子が展示されていました。ちょうどこの案内板のある吉田大橋付近を描いたものだそうです |
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| 跨線橋で東海道線と横須賀線を跨ぎます。方面別にホームがあるので両線間の乗り換えが便利な駅です。 |
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| 戸塚宿の上方見附跡に到着しました。ここが戸塚宿の出口ということになります。奥の案内板では広重の五十三次の別バージョンの戸塚の様子が展示されていました。 |
戸塚宿 (5/53) ▶︎ 原宿 間の宿 (5.3/53)
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| 大坂と呼ばれる緩やかな坂道を上っていきます。坂の途中には石碑がありました。写真は歩いてきた道を振り返ったところ。 |
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| 大坂松並木と書かれた説明板がありました。天気の良い日はここから富士山が見えたそうです。残念ながら松並木はほとんど残っていないようです。 |
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| R1 から分岐する環状3号を歩道橋で跨ぎます。環3の道路はジェットコースターのような下り坂と急カーブになっていました。 |
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| R1 の 46km キロポスト。 |
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| 江戸から11里 (約43.2km) の原宿一里塚跡に到着しました。標柱によると、塚は明治期に里程標に取って代わられたとのことです。 |
原宿 間の宿 (5.3/53) ▶︎ 鉄砲 間の宿 (5.7/53)
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| 原宿という名の通り、ここは宿として栄えた地。ただし正規の宿場ではない「間の宿」 (あいのしゅく) だったようです。写真の原宿交差点は R1 と環状4号の交差点でかつては渋滞が深刻でしたが、2010年に R1 本線が地中化され今では静かな交差点になりました。 |
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| 崎陽軒の美しい洋館があり、その横に売店が併設されていました。お昼ご飯はこれにしようとシウマイ弁当を購入。なおお値段は ¥950。昔は ¥750 ぐらいだったはずですが、ずいぶん高くなったものです。 |
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| 「大磯宿まで五里」(約19.6km)、街道ウォーカーにとても刺さる、かまぼこ屋さんの看板。 |
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| 影取立場跡の標柱がありました。茶屋などがあった場所で、藤沢宿まで1里ほどとのことです。 |
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| 国道を離れ脇道へと分岐するところに影取池と書かれた案内板がありました。 |
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| まもなく藤沢宿というところで、戸塚宿周辺散策案内図がありました。地図で見るとここは戸塚区の西端なので、京方から来た東海道ウォーカー向けの案内板のようです。 |
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| 鉄砲宿の説明板がありました。人々の影を食べる大蛇が棲んでいて、鉄砲の名手に始末された伝説に由来するそうです。先ほど通った影取池もこの話に由来するのでしょう。 |
鉄砲 間の宿 (5.7/53) ▶︎ 藤沢宿 (6/53)
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| 並木道の続く緑ヶ丘地区。木陰が心地よいです。 |
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| 江戸から12里の遊行寺坂 (ゆぎょうじざか) 一里塚跡に到着しました。分間延絵図が添えられた立派な説明板が立っていました。 |
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| 標柱も立っていました。現在の坂道は掘り下げてできたもので、かつての一里塚はここよりも高い位置にあったそうです。 |
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| 藤沢宿の入口の桝形の角にある「ふじさわ宿交流館」に到着しました。とても美しい建物です。 |
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| かつての藤沢宿の様子を伝える様々な資料や模型等が展示されていました。 |
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| 外の休憩スペースでシウマイ弁当を開封、少し早いお昼ご飯にしました。昔はシウマイ弁当に入っているあんずがちょっと苦手だったのですが、大人になってから「割とありかも...」って思うようになってきました。 |
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| 藤沢宿の蒔田 (まいた) 本陣跡に到着しました。藤沢宿にあった唯一の本陣とのことです。 |
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| 藤沢宿を出て小田急線の渡ったところで北側に広がる伊勢山に寄り道することにしました。 |
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| あっという間に頂上に到着。忠魂碑などの石碑が鎮座していました。YAMAP によると標高は 49m とのことです。 |
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| これは三角点? |
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| 承応2年 (1653年) となかなか古い庚申供養塔がありました。下部には三猿が彫られていました。 |
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| 伊勢山から北方の眺め。小田急線の線路が南北に貫いており、右手前に藤沢本町駅があります。 |
| 分間延絵図に描かれた伊勢山からの眺望を紹介した説明板がありました。街道歩きとは関係ない寄り道のつもりだったので思いがけない発見です。ここから江ノ島が見えるそうですが、実際のところは・・・? |
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| 現代でも江ノ島がばっちり見えました。 |
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| 伊勢山公園には吉野桜が200本余り植えられており、桜の名所でもあるそうです。 |
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| 国道に戻ってきて街道ウォーキング再開です。R1 の 54km キロポストがありました。 |
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| 道端に怪文書を発見。 |
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| 美しい松並木がありました。 |
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| 相模線の線路を跨ぎます。ちょうど茅ヶ崎行きの電車が通過していきました。 |
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| 江戸から14里 (約55.0km) の茅ヶ崎一里塚に到着しました。南塚が現存し、立派な石碑も置かれていました。 |
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| 鶴嶺八幡宮のとても大きな一ノ鳥居が鎮座していました。社殿はここから 900m 以上先にあるようです。平安末期に源氏により創建された歴史ある神社です。 |
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| R1 の 60km キロポスト。ちょっと痛んでいます。 |
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| 小出川を下町屋橋で渡るところに旧相模川橋脚と書かれた碑がありました。ここより少し南に行ったところで発掘された鎌倉時代の橋の跡が保存されているそうです。 |
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| 小出川の下流方面。この先の相模湾に注ぐ直前で相模川に合流しています。 |
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| 茅ヶ崎市を抜け、平塚市に入りました。 |
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| 馬入橋 (ばにゅうばし) で相模川を渡ります。江戸時代は橋はなく、馬入の渡しで往来していたそうです。江戸時代より前は、先ほど通った旧相模川橋脚の遺跡が示すように橋があったことから、江戸時代は意図的に橋が架けられなかったことが分かります。 |
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| 馬入橋から相模川下流方向。東海道線の橋梁が並行しています。 |
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| 踊り子号が通過していきました。 |
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| 陸軍架橋記念碑がありました。関東大震災で馬入橋が被災した際、陸軍の手により迅速な架橋が行われた功績を称えたものだそうです。現在の馬入橋はそこから更に架け替えられたもの。 |
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| 江戸から15里 (約58.9km) の馬入一里塚跡に到着しました。大きな石碑が置かれ、その奥には分間延絵図を添えた説明板がありました。 |
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| 交差点から平塚駅が見えました。 |
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| 「七夕さま」と書かれたモニュメント。2体のキャラクターはそれぞれ「ひこまる君」「なな姫ちゃん」というそうです。 |
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| 東海道平塚宿東組問屋場蹟と書かれた石碑と説明板がありました。2軒あった問屋場のうちの1つだそうです。 |
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| 平塚宿の本陣跡に到着、神奈川銀行の平塚支店の前に石碑がありました。14代将軍徳川家茂や明治天皇がこの地で休憩されたそうです。 |
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| 本陣跡には標柱も立っていました。 |
平塚宿 (7/53) ▶︎ 大磯宿 (8/53)
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| 平塚宿を出て大磯方面へ西進します。広重の五十三次にも描かれている高麗山 (こまやま) が見えてきました。 |
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| 交差点の奥にある生垣には平塚宿の京方見附跡の説明板があるようですが、信号を渡ってから遅れて気づいたのでそのまま先に進みました。 |
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| 花水橋の手前に広重の平塚の絵が展示されていました。説明板には「平成の一里塚」とあり、道路整備の際に憩いの場として作られたモニュメント的なもののようです。旧東海道の里程を示すものではありません。 |
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| 花水橋で花水川を渡ります。高麗山が近づいてきました。 |
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| 下流側を見渡すと貨物列車が停止していました。踏切障害で緊急停車したようです。 |
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| 虚空蔵尊と彫られた石碑と、小さなお堂がありました。説明板によると、高麗寺の寺領を示すもので、大名行列もここで下馬して最敬礼をして静かに寺領内を通ったとのことです。 |
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| 美しい松並木が並ぶ緩やかな坂「化粧坂 (けわいざか)」を上っていきます。 |
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| 化粧井戸と書かれた説明板がありました。虎御前と呼ばれる女性がこの近くに住みこの井戸水を汲んで化粧をしていたとか。 |
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| 並木の密度が濃くなってきました。 |
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| 江戸から16里 (約62.8km) の化粧坂一里塚跡に到着しました。海側の塚に榎、山側の塚にせんだんが植っていたそうです。 |
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| 広重の五十三次の大磯の絵が展示されていました。画題にある虎ヶ雨とは、仇討ちの物語で虎御前が流した涙を雨として表現したものだそうです。 |
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| 旧街道の道筋上を東海道線の線路が斜めにクロスしていました。 |
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| 歩行者のみ通行できる地下道があり、これで線路の反対側に行くことができました。 |
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| 地下道から出た先にも松並木が少し続いていました。今にも倒れそうな松も。 |
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| 大磯宿の江戸見附跡に到着しました。ここから先が大磯宿ということになります。 |
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| 大磯宿の問屋場跡には説明板があり、広重の画をもとに問屋とその周辺について解説していました。 |
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| 大磯宿の本陣跡はレンタル着物屋さんになっていました。大磯宿には3軒もの本陣があり、ここは小嶋 (小島) 本陣跡のようです。 |
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| 隣の信金の前には尾上本陣跡と彫られた石碑がありました。大磯小学校発祥之地ともあります。 |
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| この本陣前で旧道の筋を離脱、大磯駅へと向かいました。 |
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| Oiso Beach と書かれた大きな看板がありました。大磯駅は大磯海水浴場の玄関口。 |
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| 目標としていた 40km も超え、大磯駅に到着しました。なかなか味のある駅舎です。 |
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| 東海道線に乗って帰路に就きました。 |



















































































































