中原街道 (1/3) 虎ノ門→中山

東京の虎ノ門から旧中原街道経由で中原御殿跡・平塚宿を目指すウォーキングの1日目です。全行程のリンクと注意事項、アドバイスなどはこちらをご覧ください

概要

記録

虎ノ門 ▶︎ 小杉 (1/4)

地下鉄で虎ノ門駅にやってきました。ここは11番出口です。虎ノ門の「門」は江戸城外堀に設置された出入り口を指しており、いくつかの道がここから伸びていました。そのうちの一つが中原街道というわけです。

さきほどの出入り口に向かっている途中の壁面に「外堀水面」と刻まれている場所がありました。

目の前に立派な石垣が出現しました。江戸城外堀の石垣が保存されているそうです。

石垣の下には展示室があるようです。地下鉄の出口に戻って向かってみます。

展示室の様子。江戸城に関するパネル資料がありました。左奥に見えるのがさきほどの石垣の下部になります。

積まれている石の展示がありました。

虎ノ門周辺の発掘調査を説明したパネルです。今はこの地に文部科学省が建っています。

外堀全体と今昔比較をしているパネルです。城下町の構造をベースに現代の東京が出来上がったことがわかります。

外堀の土木技術について解説しているパネルです。伊豆半島で採取した伊豆石を船で運び、陸上げし、あの手この手で江戸城まで運び込んだことがわかります。

石垣の構成を解説しているパネルです。詳しく見ていきたいと思います。

石垣は寛永13年 (1636年) に築かれたあと、幾度も改修された跡があるそうです。また、担当した大名の刻印も確認できるそうです。展示室の足元は外堀の水面のやや下に位置していて、その少し上に江戸末期から近代頃とされる大きな改修跡が残っているそうです。上部の端のほうはこの展示のため丸の内にあった石垣をここへ積み替えて修復したそうです。

一見一様に積まれたように見える石垣も、長い歴史の中で変遷しているということですね。

虎ノ門交差点に戻ってきました。ここからウォーキングスタートです。

こちらは文科省の建物の様子。手前の旧庁舎は昭和7年 (1932年) に建てられたもので、奥のタワーが本庁舎です。

霞ヶ関の名前の由来を説明した板がありました。武蔵国にあった関所の名前を採ったそうです。

こちらは虎ノ門駅の5番出口。11番出口とは 30m ほどしか離れていません。

中央官庁の庁舎の案内板がありました。財務省も近くにあります。

歴史館の資料に基づき、1国 (地元では第二京浜国道という意味で "2国" と呼んだりもします) と外堀通りの間の細い道に向かいます。

右手が外堀通り、左手が旧中原街道のはずです。左に進んでいきます。

金刀比羅 (ことひら) 宮がありました。高層ビルが立ち並ぶ中にあり、奥の虎ノ門琴平タワーはなんと境内の中に建っています。神社は延宝7年 (1679年) からこの地にあるそうです。

とても凝った造りの銅製の鳥居は文政4年 (1821年) 製。奥の社殿は戦災で焼失後、昭和26年 (1951年) に再建されたものです。

百度石と彫られた大きな石造物がありました。この石に触れてから拝殿でお参りするという往復を100回繰り返せば願いが届くと言われているそうです。

歴史館の資料によると、金刀比羅宮の前の道をしばらく進んだあと、途中で1国・桜田通り方面にカーブしています。明治期の古地図を参考に近似するとこのあたり。

おっと、道路工事で進めません。右手 (南側) へ迂回しました。

虎ノ門ヒルズが見えてきました。ここを右に曲がり、1国に復帰します。

五反田まで 6km とあります。中原街道も五反田を経由し、そこから丸子橋へと向かいます。

愛宕山に寄り道することにしました。天然の山としては東京23区内最高峰でもあります。

弔魂碑 (左) と殉皇十二烈士女之碑 (右)。敗戦直後の1945年8月17日、降伏に反対する人たちがこの地に立てこもって決起を呼びかけ、その後集団自決した「愛宕山事件」の慰霊碑です。

出世の石段と呼ばれている参道の階段です。徳川家光が石段の上の梅の枝を馬で採ってくるものはいないかと呼びかけ、挑戦し成功を納めた丸亀藩の家臣が馬術の名人として後に名を馳せたことに由来するそうです。

愛宕神社の神門の前に茅の輪くぐりがありました。ここは八の字ではなく直進で良いそうです。

愛宕神社に参拝しました。木々に囲まれた落ち着いた空間で、都会のオアシスのようです。

池の中を美しい錦鯉が泳いでいました。

愛宕山山頂の三等三角点。標高は 25.7m です。

寄り道から国道に戻ってきました。ウォーキング再開です。

西久保八幡神社の大きな鳥居。徳川家とも縁の深い神社ですが、明治の神仏分離前はお寺だったそうです。

現代の道と古地図を比較すると、こうした脇道 (右) が昔からの道で、後から線形の良い道 (左) ができたことが分かります。今回はもちろん脇道へ進みます。

石原慎太郎の部屋という展示館がありました。著書や書斎などが展示されているそうです。

この立派な建物は霊友会釈迦殿というイベントホールだそうです。

脇道の奥から麻布台方面には雁木坂という階段がありました。入り口の標柱には、敷石が直角に組まれていたことから雁木坂という名前になったと刻まれています。

国道に戻り、三田方面へカーブしながら緩い坂道を下っていきます。

東京タワーの足元まできました。このあたりは紅葉山という "山" でもあります。軽く山頂ハンティングに寄り道。

遊歩道のようなところを上っていきます。

観音堂がありました。ここが紅葉山の山頂にあたるようです。お堂には如意輪観世音菩薩と書かれています。静かに手を合わせてきました。

真下から眺める東京タワー。私は高いところが大好きですが、天気もイマイチなので上るのはスキップしようと思います。ちなみに階段で上ることもできるそうで、12分ぐらいかかるとのこと。

大薩埵と書かれた大きな石塔がありました。仏教関係の文字碑でしょうか。

もみじの滝と書かれた案内板。ここは自然の地形を生かしてできた庭園のようです。

国道に戻り、赤羽橋で古川を渡ります。新撰組の前身である浪士組を率いていた幕末の志士、清河八郎が暗殺された地として有名です。近くに大江戸線の赤羽橋駅があります。

赤羽橋と書かれた灯籠がありました。先代の赤羽橋の親柱とのことです。

慶應の三田キャンパスの前を通り過ぎます。昔この近くで働いていたとき、たまに学食にお邪魔していました。山食のカレーが人気メニューです。

このまま直進すると札の辻で旧東海道と道筋と重なりますが、中原街道の道筋はその少し手前で聖坂へ右折するため、東海道とはギリギリ重なりません。たまたまなのか、それとも大名行列とうっかりぶつかるのを避けるため等意図的なものなのかは分かりません。

以前何度か食べたラーメン屋さんが閉店になっていました。ちょっと寂しいです。

店主の切ないメッセージ。

ここが聖坂の入り口になります。国道から見ると一度右折してから左折し、右奥の細い道に入っていきます。

ちぃばすの周辺案内「ちぃまっぷ」の案内板がありました。聖坂の解説もあり、「古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧 (高野聖) が開き、その宿所もあったためについた名と言われています。」との記述がありました。後述しますが、坂を上ったところに高野山東京別院があります。

坂を上り始めると、聖坂と書かれた標柱がありました。側面には先ほどの案内板と同じことが書いてあります。

坂の途中に亀塚稲荷神社がありました。一夜のうちに石になった亀があり、その霊を祀った祠が由来であると伝わっています。

とても特徴的なこの建物は駐日クウェート大使館。代々木体育館や都庁、フジテレビ本社などを設計した丹下健三氏の作品の一つです。老朽化により取り壊しの計画も立てられましたが、現在は一旦白紙になっています。

亀塚公園に到着しました。歴史館の資料によると、円墳形をしている盛土があり、古墳という説もあるそうです。

亀塚公園の案内図がありました。現在位置は図中の一番上です。図中右下のほうに塚があるので向かってみます。

塚には階段があって上れるようです。

案内板によると、学術調査を行った結果、古墳の可能性が高いとされたものの、断定には至らなかったとされています。

頂上に上ると先ほどの案内板にも言及があった亀山碑がありました。寛延3年 (1750年) に上野国の大名が邸内に建立した石碑とのことです。

亀山碑の様子。とても大きな石碑です。

三田坂めぐり散歩と書かれた案内板がありました。文化財や歴史的建造物を紹介しています。このあたりは洋館が多く建てられたそうです。

上皇上皇后両陛下ご移居記念樹と書かれた案内板がありました。この奥が高輪皇族邸になっており、バラが記念植樹されたようです。

高輪皇族邸の玄関。厳重な警備がされています。

大石良雄等自刃の跡の碑がありました。元禄16年 (1703年) にこの地にあった熊本藩細川家の下屋敷で16人の赤穂浪士が切腹したとのことです。石碑自体は大正6年 (1917年) のもの。この地は今は都営住宅になっています。

東海大学の品川キャンパスの前を通り過ぎました。ここには以前セミナーでお邪魔したことがあります。とても綺麗な建物です。

高野山東京別院に到着しました。山門の手前に弘法大師像が鎮座しています。

高輪三丁目交差点に到着しました。なんてことないT字路ですが、ここで中原街道は右手に進みます。

国道に合流しました。日本橋から 9km のキロポストがありました。ここから五反田に下っていきます。

江戸時代の古地図では雉子神社 (当時の名前は雉子宮) の境内を避けるように道が折れ曲がっていましたが、国道は線形が改良されています。折れ曲がっている道筋も脇に残っており、今回はそちらを歩いてみることにしました。

直角に曲がったあと、国道方面に戻ります。

国道に戻ったあと、雉子 (きじ) 神社に立ち寄りました。江戸時代より前の室町時代に創建された神社です。

とても大きなイチョウの木がありました。

イチョウは雌雄の株が別れており、これは雌樹だそうです。樹齢150〜200年とのことです。

雉子神社の御由緒が書かれた碑がありました。徳川家光が鷹狩りに来た際に一羽の白雉が社地に飛び入ったのを稀なめでたいしるしであるとして雉子宮と名付けられ、明治維新で雉子神社と改められて今に至るそうです。

雉子神社の本殿は高層ビルに飲み込まれるように鎮座していました。ここにも茅の輪くぐりがあったので八の字にくぐって参拝してきました。

奥には祖霊社が鎮座していました。

昭和9年製の記念碑。道路改修に関する記述がありました。

きらびやかなお神輿が展示されていました。

社殿の裏手には三柱神社も鎮座していました。

五反田駅に到着しました。ちょうど山手線の電車が滑り込んできました。

山手線の下をくぐったら大崎橋で目黒川を渡ります。江戸時代にはこの付近を肥やしを乗せた船が走っていたそうです。くさそう・・・。

大崎橋からは大崎駅を出発した池上線の電車が見えました。ずいぶん高いところに線路があります。池上線は都心進出を目指して山手線を乗り越えられるようこの高さになったそうですが、残念ながら今も五反田駅止まりです。

歴史館の資料にも載っていた協和地蔵尊に立ち寄ってみました。

もともとこの地には中原街道の建設で出た犠牲者の供養のため建てられた六地蔵が建っていたが、大空襲で損傷してしまったため西五反田協和町会を中心に新たに建立したのがこの協和地蔵尊とのことです。昭和57年 (1982年) に建てられ、地蔵尊の下には50年後の昭和107年 (2032年) に開けることを期待したタイムカプセルが眠っているそうです。

この先で国道1号 (第二京浜) を離れ丸子橋へ進路をとります。

ここでようやく「中原街道」の4文字を目にすることができました。小さいですが、歩道橋に掛かっている道路標識に記載があります。写真の左手前から右奥方向へ歩を進めます。

ここは中原口交差点という名前がついています。現代の中原街道 (都道2号) はここが起点であり、中原方面の入口ということで中原口となったのでしょう。

中原口交差点から伸びる都道2号は現代の中原街道ですが、その北側に江戸時代の中原街道の道筋が残っているため、そちらに歩を進めることにしました。道幅がとても旧街道感があります。

子別れ地蔵と名付けられたお地蔵様が交差点に鎮座していました。

子別れ地蔵は享保12年 (1727年) に建てられたそうです。ここは桐ヶ谷の火葬場に続く道筋であったことから、子に先立たれた親がその亡骸を見送った場所であると伝わっているとのことです。道筋が示す街道の北西側には現在も大きな斎場があります。

「旧中原街道供養塔群 (一)」と書かれた説明板と、その奥に数基の石像がありました。

江戸時代中期に建てられた供養塔群で、現在地の北方約 100m の辻にあったものが昭和38年 (1963年) の区画整理で移されたものとのことです。古地図で 100m 北を調べると、火屋のあった霊源寺の参道らへんが相当します。

旧中原街道と書かれた標識がありました。街道歩きの情緒が出てきました。

戸越地蔵尊に到着しました。いろいろなものが置かれておりちょっぴりにぎやかです。

「旧中原街道供養塔群 (二)」と書かれた案内板がありました。中原街道について「虎ノ門より相模国平塚に至る道路」と解説もあります。供養塔群の構成は、庚申塔や地蔵、銘文不明の供養塔、墓碑で、江戸時代中期のものが多いようです。

大きな屋根のあるエリアの左手にも石像がありました。

大きなお地蔵さんはなかなか着込んでいます。

とても大切にされているのが伝わってきます。

明治初期に書かれたらしい平塚橋周辺を描いた絵がありました。奥の校舎は明治11年 (1878年) 開校の京陽学校とのこと。

都道2号に戻ってきました。ここにも旧中原街道の標識がありました。

旧中原街道の説明板がありました。現存の旧中原街道は荏原1・2丁目に約 950m に渡ってほぼその道筋を残しているとあり、ちょうど中原口からここまで歩いてきた区間を指しているようです。

交差点の反対側にある平塚橋の碑に寄ってみました。玉川上水から分水された品川用水が中原街道と交差しており、そこに架けられた橋が平塚橋とのことです。現在は用水はなくなっていて橋もありませんが、交差点の名前として残っています。

無電柱化を目指すそうですが、目標年度が空欄になっています。このあと書き込まれるのでしょうか。

道端に庚申塔がありました。立派な屋根付きで花も添えられています。

寛文5年 (1665年) 建立の庚申塔とのことです。庚申塔は江戸中期〜後期のものをよく見かけますが、前期のものは珍しいですね。区内現存の50基の庚申塔の中で3番目に古いものだそうです。

庚申塔のすぐとなりに「札場の跡」と書かれた石碑と説明板がありました。高札場があったそうです。高札場は法度 (法令・禁令) などが記された板「高札」が掲げられていた場所です。

札場の跡碑の隣には木霊 (こだま) 稲荷神社がありました。この地には昭和40年ごろまで大きなケヤキが立っていて、木霊の名はそれに関係しているようです。

都道2号はゆるやかな右カーブですが、古地図ではほぼ直角に曲がっていました。その道筋に近いのはこの左手の細い道路のようで、歴史館の資料でも紹介されていました。なお、このあと一時的に雨が強くなったので一旦旗の台駅前のマクドナルドでご飯を食べながら雨宿りをしてやり過ごしました。

この美しいレンガ造りの教会はイングランド教会系の教会で、三光教会というそうです。奥の敷地はミッションスクールの中高一貫校である香蘭女学校になっています。

東急大井町線の線路の下をくぐります。昔は地べたを走っていて踏切があったそうです。

洗足池に到着しました。日蓮が身延山から池上に行く途中、この池で足を洗ったことから洗足池と呼ばれるようになったそうです。

湖畔には中原街道改修記念碑が建っています。改修は大正6年 (1917年) から12年 (1923年) にかけて行われました。

なかなか逃げない鳩がました。餌付けされているのでしょうか。

呑川をまたぐ石川橋の橋詰に石橋供養塔がありました。

安永3年 (1774年) に建てられた供養塔で、かつてここにあった石橋の無事と通行人の安全を願って建てられたそうです。

呑川は地元では臭い川として悪名高いですが、水質改善の取り組みがなされているそうです。しかし最近でもボラの大発生や大量死なども起きているので、改善は道半ばなのでしょう。

現代の呑川に掛かる橋はコンクリート製です。

呑川の様子。典型的な都会のドブ川です。

田園調布警察署前交差点に到着しました。立体交差している道路は環八通りです。旧中原街道はここから南西方面に分岐し、桜坂を経て丸子の渡へと至ります。

峰町文化センターの前に歴史散策マップがありました。現在地は地図中央上部で、図中左下の丸子の渡跡に向かって歩を進めます。地図の下に桜坂の解説があり、旧中原街道への言及も見つけることができました。

道幅の狭さがなんとなく旧街道を感じさせます。

桜坂の坂上に到着しました。名前の通り桜並木になっています。桜が植えられたのは昭和5年 (1930年) で昔から桜の名所ですが、近年では福山雅治の曲「桜坂」のモデルとしても有名になりました。アニメ「CLANNAD」の聖地でもあります。徒歩の場合は車道の脇にある側道を歩きます。

桜坂の一番の名物はなんといってもこの橋「桜橋」です。この橋から桜並木を見下ろしたり、桜を橋を絡めて写真に収めたりするのが定番の楽しみ方です。

桜橋から坂上方面を眺めたところ。桜が咲くと最高の景色になります。

桜橋から坂下方面を眺めたところ。坂上方面と比べるとやや見通しが悪いです。

桜橋を渡って下ったところに旧中原街道の説明板がありました。中原産の食酢の運搬にも使われたことから御酢街道とも呼ばれていたことや、かつてこの坂は沼部大坂と呼ばれ難所であったことなどが解説されています。

桜坂を下り切ると、六郷用水の跡にたどり着きます。現在では付近の湧き水を使って復元された水路が流れています。

六郷用水物語と書かれた説明板には、江戸時代初期に開削された農業用水路である六郷用水のルートを示した地図が示されていました。

復元水路の様子。この水路は丸子橋の橋詰まで続いています。

多摩川の河川敷にたどり着きました。ここで一旦帰宅しシャワーを浴びて少し休憩、また試していた新しいインソールがいまいち合わないため元々使っていたものに交換してきました。

ウォーキングを再開し、多摩川の土手に戻ってきました。ここには昭和9年 (1934年) に初代丸子橋が出来るまで橋がなく、江戸時代が終わった後も長いこと丸子の渡が往来を担っていました。

丸子の渡があったのはこのあたりになります。大雨の際は中洲は完全に水に浸かります。2019年の台風19号の際は今立っているあたりにも水が広がり水浸しになりました。

丸子橋を下から眺めた様子。現代の丸子橋は2000年に掛け替えられた2代目になります。ゴジラに壊されたこともあります。

丸子橋から下流方面。正面に見える橋には東海道新幹線と横須賀線が通っています。

河川敷は野球場やサッカー場、ゴルフの練習場などが整備されています。奥にはちょうど新幹線がやってきました。

多摩川を渡りきり、丸子の渡の対岸にやってきました。鉄製の碑には、江戸時代初期から昭和10年 (1935年) まで人や物資の往来を担ったことが記されていました。

丸子橋界隈を離れ、小杉御殿町方面へと歩を進めます。

土手から御殿町までの道筋は江戸時代の古地図だとよく分からなかったため、明治初期の古地図を参考にこちらの道を歩くことにしました。現在の丸子通りの延長線にある道です。

丸子橋交差点に到着しました。中原口からの都道2号線は神奈川県道2号線となり、愛称も綱島街道に変わって南 (写真左手) に進みます。中原街道の続きはここが起点の県道45号線に引き継がれます (写真右奥)。

県道45号線に入りました。茅ヶ崎市まで 43km の標識があるように、45号線はここから茅ヶ崎市内を結んでいます。途中の寒川までは旧中原街道の道筋と重なります。

小杉御殿町に到着しました。名前からも分かるように徳川家の小杉御殿があった地です。見どころがたくさんあります。

街道の脇にそびえ立つこの立派な門は原家旧住宅表門、通常陣屋門です。

明治後期の作りとされるこの表門は国登録の有形文化財にもなっています。

表門をくぐって敷地中にお邪魔すると、右手に稲荷社がありました。

原家の屋敷神で、お社と呼ばれ親しまれているとのことです。

中原街道と書かれた道標がありました。「左 平塚 五千米」(5km)、「右 江戸 十千米」(10km) とあります。

旧名主家と長屋門と書かれた案内板、奥に門が見えるので近づいてみます。

立派な門が現れました。

安藤家長屋門と書かれた説明板がありました。幕末頃の作りだそうです。元々は茅葺で、大正7年 (1918年) に瓦屋根に改造されたとのこと。全体構造を見ると左右非対称なのが面白いです。

石橋醤油店と書かれた歴史のありそうなお店。

石橋醤油店はキッコー文山のブランドで明治3年 (1870年) から昭和24年 (1949年) まで醤油を生産していたそうです。

「碑橋 八百八橋」と書かれた石碑がありました。中原街道沿いにたくさんの石橋を架けた肥料問屋の野村文左衛門氏の顕彰碑とのことです。

小杉御殿前に設けられた枡形 (桝形) や鍵形などと呼ばれるクランク状の道路形状が今も残っています。右手にこのクランクを解消し小杉十字路に直結するための道路が作りかけですが、用地買収が思うように進んでいないのか長いこと工事は進んでいません。

先ほどの枡形の角に「史跡 徳川将軍小杉御殿跡」と書かれた石碑が鎮座しています。またこの奥は西明寺というお寺になっており、この右手に大きな仏像も並んでいます。なお、この日は近くの等々力緑地で川崎市政100周年記念イベント「かわさき飛躍祭」が開かれており、多くの人出がありました。

「小杉御殿とカギの道」と書かれた説明板がありました。歴史館の資料でも紹介されていた小杉御殿見取絵図が示されていました。図では北が下になっていますので、御殿は北側に広がっていたことがわかります。

参道の入り口には「西明寺と小杉学舎」と書かれた説明板がありました。真言宗智山派のお寺であると共に、明治初期には小学教育の場も置かれていたそうです。

中原街道各幅記念と書かれた新し目の石碑がありました。

参道脇に二宮金次郎像がありました。小杉学舎に関係するものでしょうか。

光明橋を渡ると立派な山門があります。

2つ目の山門の奥に光明寺の境内が広がります。

小杉御殿の御守殿跡に寄り道してみました。小さな稲荷社が建っています。

説明板には、小杉御殿は二代目将軍秀忠が建てたこと、家康の送迎や鷹狩りの休憩所などに使われていたことなどが説明されていました。

稲荷社に手を合わせ、街道歩きに戻りました。

題目供養塔がありました。写真では切れてしまっていますが、基礎石が道標になっているようです。また奥の説明板によると、「稲毛領小杉駅」とも彫られているそうです。小杉が宿駅に認められたのは寛文11年 (1671年) のことで、街道の存在を今に伝えています。

小杉 (1/4) ▶︎ 佐江戸 (2/4)

かわさき飛躍祭ではブルーインパルスの飛行展示もあり、小杉交差点にはグッズのポップアップショップが開かれとても賑わっていました。

泉沢寺の前には日露戦役記念碑が建てられており、その手前にはこのお寺に関する説明板も置かれていました。室町末期に世田谷から引っ越してきたお寺とのことで、ここの門前市は世田谷ボロ市と並んで広く知られていたそうです。

泉沢寺の様子。奥の本堂は安永7年 (1778年) に建立されたものが現存しているそうです。

山門前の案内板には、文化財が紹介されていました。古文書や仏像が紹介されています。

境内に並ぶ石仏群。

南武線の武蔵中原駅に到着しました。JR 化直後の昭和63年 (1988年) に高架になり、踏切が解消されました。

線路を潜って街道を進みます。

巌川橋跡と書かれた石碑を横目に江川せせらぎ遊歩道を横切ります。ここを境に川崎市の中原区から高津区に入ります。

千年 (ちとせ) 交差点にやってきました。ここを右折した先に「溝口温泉 喜楽里」という温泉施設があり、たまに自転車で浸かりに行きます。しかしここから先真っ直ぐにはこれまで行ったことがなく、初めて脚を踏み入れることになります。

たちばなの散歩道と書かれた標識がありました。道外れに古代の丘緑地と富士見台古墳があるそうです。

橘樹官衙遺跡群と周辺の遺跡と書かれた大きな案内板がありました。古代から交通の要衝で7〜10世紀の様子を知ることができる遺跡があり、国史跡にも指定されたとのことです。

古地図と照らし合わせると、この左手の脇道のほうが旧道の道筋に近そうです。左へ進んでみます。

天照皇大神と書かれた大きな石碑と、その横に小さな供養塔らしき石碑が並んでいました。歴史館の資料でもこの供養塔群の紹介があったため、ここが旧中原街道の道筋で間違いなさそうです。

脇道はすぐに県道に合流しました。ここにも「たちばなの散歩道」の案内板がありました。ここで中原街道を横切って能満寺、影向寺方面に向かう散歩道とのことです。

野川交差点に到着しました。綺麗に手入れされた花壇がありました。

野川橋で矢上川を渡ります。矢上川は綱島温泉の近くで鶴見川と合流し東京湾に注いでいます。水源はすぐ隣の宮前区のあたりとされますが、その割に水量があるように感じます。

矢上川の上流側に目をやると第三京浜の高架が見えました。小杉から多摩川を少し上流に行ったところにある玉川 IC と、横浜新道や首都高 K2 三ツ沢線と繋がる保土ヶ谷 IC との間を結ぶ高速道路です。

矢上川の支流である有馬川としばらく並走しながら南に進みます。

川崎市を抜け横浜市に入りました。ここは都筑 (つづき) 区になります。市境を超えたとたん道幅の広く綺麗な並木道になりました。

第三京浜が中原街道をオーバークロスしていきます。写真は下をくぐったあと振り返ったところです。

道中坂と書かれた標柱がありました。

標柱の横には鎌田堂、立派なお堂とたくさんの仏像が並んでいました。

鎌田堂の由来と書かれた石碑がありました。堂の背後に鎌田兵衛正清の館があったことから鎌田堂と言われるようになり、寛文13年 (1673年) から現在の地にあるそうです。またお堂の再建とこの石碑の建立は昭和56年 (1981年) になされたそうです。

小さな稲荷社と石塔。

力石と書かれた大きな石。腰を痛めてはいけないので持ち上げるのはやめました。

お堂は開いていました。2基の仏像が鎮座していました。

お地蔵さんオールスター。本体も台座もピカピカなので最近創られたものでしょうか。

享保四 (1719年)、安政六 (1859年) などの文字が読み取れます。江戸中〜後期のものが多いようです。

道中坂下交差点から旧道跡らしき脇道が西側に分岐しており、そちらに進んでみます。

脇道はすぐに県道に合流し、向町交差点にやってきました。ここからも旧道跡らしき脇道が西側に分岐しており、そちらに進んでみます。

のちめ不動尊、なかなかの旧階段です。お堂の前では老人が集まって談笑していました。

緩やかな蛇行具合に旧街道っぽさを感じます。

県道に合流したところにある山田 (やまた) 神社の鳥居脇にたくさんの石仏・供養塔が並んでいました。すごい量のお水がお供えされています。

山田神社の大きな鳥居が交差点の角に建っています。地図で見ると本殿はここからだいぶ奥にあるようです。

中川中学校のグラウンド前に馬頭観世音の文字碑がありました。

早渕川を渡る手前で再び旧道跡らしき脇道の分岐がありました。右手の脇道へ進みます。

勝田橋で早渕川を渡ります。脇道にも関わらず結構な交通量です。

早渕川は隣接する青葉区から流れ出る鶴見川の支流で、綱島で鶴見川に合流し東京湾に注いでいます。

何の案内もない五叉路ですが、直進して細い道へと進みます。少し先から坂になっているようです。

坂に差し掛かったところで神社がありました。杉山神社というそうです。坂道と並行して階段の参道が続いています。

柵で厳重に仕切られた雑木林があり途中に出入り口がありましたが、何も案内はありません。地図を見ると、この奥には勝田村の名主だった関家の住宅があるようです。建物が国宝や重要文化財に指定されているそうですが、見に行くには県道に回る必要があるようです。

街道は南西方向から真南へと緩やかに進路を変えていきます。

サポート付き貸し農園「シェア畑」があり、農作業に勤しんでいる人がいました。2畝単位で月額6400円で借りられるそうです。

大きな石碑がありました。この奥にある寿福寺のもののようです。

こちらは馬頭観世音の石碑。

こちらは親鸞 (しんらん) 聖人御像。奥の寿福寺は浄土真宗本願寺派のお寺ですが、その開祖となるお方です。

旧街道の道筋は港北ニュータウンのマンション用地で絶たれてしまいました。迂回しようかと考えたのですが・・・。

敷地内の公開空地は横浜市との協定で日常自由に通行又は利用できるとのことです。ちょうど反対側に通り抜けられるように公開空地が設定されているので、ここを通っていきます。

ニュータウンの中にお邪魔します。

反対側に出られました。しかしこの先のマンションは物理的にも通り抜けできません。県道に迂回しても良いのですが、近くには茅ヶ崎公園が広がっているので、今回は公園を抜けていきたいと思います。

茅ケ崎貝塚橋を渡り、ここから公園へと至る「せきれいのみち」へ降りていきます。

茅ヶ崎貝塚橋の様子。名前の由来の茅ヶ崎貝塚は行きたい方向とは逆に少し行ったところにあるようです。

茅ヶ崎公園へと歩を進めます。左手には小川が流れていました。

せきれいのみちの案内板がありました。地図をよく見ると、歩いてきた細い道に「旧中原街道」と記載があり、古地図と照らし合わせて歩いてきた道がちゃんと旧街道であったことが分かりました。ちょっと嬉しくなりました。

大きな池に当たりました。池の東側を抜けていくことにしました。

大きな広場がありましたが、午前中に降った雨でぬかるんでおり、遊んでいる人はいませんでした。

公園はなかなか変化に富んでいて散策しがいがあります。とはいえ公園の出口は限られているので、一番ロスがない出口に向かって進んでいきます。

鬱蒼とした森から突然現れた近代的な建築物。茅ヶ崎公園プールの入り口でした。

DEUTSCHE SCHULE TOKYO YOKOHAMA と彫られた壁と立派な建物がありました。ここはドイツ人学校のようです。

茅ヶ崎南みかん公園の様子。このあたりでようやく古地図の街道の道筋と合流しました。

古地図だとこのあたりを斜めに横切っているのですが、区画整理で道筋を辿ることが難しいです。いったん右手に進むことにしました。

向原橋という歩道橋を渡って大塚原交差点を跨ぎます。写真左手奥に伸びる細い道が旧中原街道になり、県道45号もこの交差点で左手に折れ曲がっています。太い道の正体は新横浜・港北 IC から東名川崎 IC を結ぶ幹線道路 (横浜市道 新横浜元石川線) で、中原街道はクロスするついでに短距離重複しているだけの存在です。

大塚原交差点を抜けると一気に閑散としてきました。

県道45号中原街道の標識に再び出会いました。ここで歴博通りと合流して道幅が広くなります。

道端に不動尊がありました。道路の反対側には馬頭観世音もありました。

この小さな祠は瀧ヶ谷伊勢宮というそうです。右手前の石像は歴史館の資料に載っており庚申塔の一種だそうです。石像の台座には文字が刻まれており、道標とみられるそうです。

県道と並行する脇道がありました。線形改良で残った旧道でしょうか。この先ですぐに合流しますが、脇道のほうを歩きました。

この小さな社は第六天神社というそうです。鳥居の裏側には滝ヶ谷戸講中と書かれていました。

佐江戸交差点を過ぎたところには地蔵尊がありました。ここ佐江戸は中原街道に置かれた小杉・佐江戸・瀬谷・用田の4つの継立場 (荷物等の中継所) のうちの一つにあたります。名前に「江戸」が入っていますが、これは「西土」が変化して「佐江戸」になったという説があります。地図で見ると「江戸」の「左」にあるというのも背景でしょうか。ただしもっと前から「佐江戸」と呼ばれていた形跡もあるので真相は分かりません。

地蔵尊前交差点にある佐江戸地蔵尊。3基の供養塔が並んでいます。平成19年 (2007年) に中原街道の拡幅によりここへ移設されたそうです。

佐江戸 (2/4) ▶︎ 中山駅

落合橋で鶴見川を渡ります。写真左手から合流してくるのが恩田川で、右手が鶴見川の本流です。

陸橋で JR 横浜線を跨ぎます。日も落ちたことですしここで中原街道を離れ、中山駅で終了することにしました。

線路際の道に降りられるようになっていました。写真は街道を振り返ったところ。

陸橋から中山駅までは 750m ほど歩く必要がありました。

無事に中山駅に到着、ここから地下鉄で帰路に就きました。