東海道五十三次 (3/18) 大磯→箱根関所
東京の日本橋から旧東海道経由で京都の三条大橋を目指すウォーキングの3日目です。全行程のリンクと注意事項、アドバイスなどはこちらをご覧ください。
概要
- 活動日: 2023年11月3日
- 歩行距離: 37.3km
- 獲得標高: 🔺1312m 🔻598m
- 出発: 05:39 大磯駅
- 到着: 17:17 箱根関所
- 合計時間: 11時間38分
- 休憩時間: 1時間59分
- 旧街道足跡マップ: https://kaidotrail.github.io/tokaido.html
- ヤマップ活動記録: https://yamap.com/activities/27946024
記録
大磯宿 (8/53) ▶︎ 小田原宿 (9/53)
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| 東海道線の始発電車に乗って1週間ぶりに大磯の地に降り立ちました。11月にもなると5時半過ぎでもまだ暗いです。 |
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| 本陣跡の信金前から旧東海道ウォーキング再開です。 |
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| 電柱が地中化されたすっきりした景観の中を西へと進みます。 |
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| 高札場跡の説明板がありました。展示されている絵を見ると、説明板のある場所と同様に街道の北側に立っていたようです。 |
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| 俳諧道場として有名な鴫立庵は通り過ぎてしまいましたが、その先に立派な冠木門が立っているのが目につきました。提灯には「翠渓荘」とあります。完全予約制の料亭らしい・・・? |
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| 上方見附跡に到着しました。ここが大磯宿の西の端ということになります。防御施設として石垣などが設置されたものの、平和な江戸時代が続くにつれ宿場の出入口を示す役目に変わっていたことが記されています。 |
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| 先ほどの見附の説明板で「東子磯松並木」と記されていた並木道が現れました。 |
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| 歩道橋に上って松並木を眺めてみました。かつての街道筋が R1 の下り線に転用されたのでしょうか。上り線は並木の北側に敷設され、上下が完全に分離されていました。 |
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| 東海道松並木と書かれた説明板がありました。この松並木は江戸時代から植継がれてきたそうです。また、歌集に登場する「小淘綾ノ浜 (こゆるぎのはま)」が大磯から国府津までの海浜一帯をさすといわれていることも併せて紹介されていました。 |
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| マツクイムシの被害に遭ってしまった若松の切り株から樹齢二百十七年であることがわかったようです。 |
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| R1 の 70km キロポストを通過。 |
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| 脇道の旧道に入ったところに神奈川県立大磯城山 (じょうやま) 公園の入口がありました。縄文時代の遺跡や子磯城の痕跡、また三井財閥当主の別荘や吉田茂の邸宅などもあった場所でもあります。 |
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| 江戸から17里 (約66.8km) の国府本郷一里塚跡に到着しました。塚は現存しませんが、説明板には2つの塚が男塚・女塚と呼ばれていたことなどが記されていました。 |
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| 看板の奥に立つ巨木は一里塚のものではないようです。 |
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| 六所神社の大きな鳥居がありました。社殿はここから 300m ほど奥にあるそうです。今日はまだどこにもお参りしていなかったこともあり、ここで寄り道することにしました。 |
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| しめ縄の巻かれた大きな欅がありました。御神木の一つだそうです。写真は歩いてきた参道を振り返ったところ。 |
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| 丁字路を突き抜けるように参道が伸びており、美しい境内が広がっていました。 |
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| 拝殿にて道中の無事を祈願しました。 |
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| 参道の脇にある池には美しい錦鯉が泳いでいました。 |
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| 6〜7世紀頃の創建で、大変古い歴史があります。平安時代には相模国の国府が置かれたほか、源頼朝の戦勝祈願、徳川家康の五十石の寄進など多くの武将からも崇敬が寄せられてきたとのこと。 |
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| 旧道筋に戻り大磯町を抜け二宮町に入りました。 |
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| 塩海橋で葛川 (くずかわ) を渡ったところに「塩海の名残り」と記された標柱がありました。かつてこの近くの浜で塩を製造していたそうです。 |
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| 吾妻山が見えてきました。 |
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| 「旧東海道の名残り」と書かれた標柱がありました。その隣の案内標柱は「約 100m 先左折 梅沢海岸」でした。 |
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| 脇道の旧道の道筋に入ってすぐのところに吾妻神社の鳥居がありました。今日は寄り道上等ということで、吾妻山にも登ってみることにします。 |
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| 跨線橋で東海道線を跨ぎます。右2線が旅客線で、左2線は貨物線のようです。 |
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| 跨線橋の先に登山口を見つけました。 |
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| 登山道 (参道) は綺麗に整備されていました。 |
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| 吾妻神社に到着しました。山の中腹にも関わらず複数の参拝客の姿が見えました。 |
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| 立派な本殿に参拝しました。波飛沫の形をした瓦が印象的です。 |
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| 吾妻山の頂上まできました。富士山や大山、丹沢山地が綺麗に見えました。 |
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| これから向かう小田原方面の様子。その先の真鶴半島、伊豆半島も見渡すことができました。 |
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| 現在位置と周辺の山々を示したプレートがありました。 |
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| 吾妻山の標高は 136.2m だそうです。 |
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| しばし景色を眺めながら休憩しました。 |
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| 万葉集にも詠まれた美しい湘南の海浜について紹介されていました。 |
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| 旧道に戻って歩を進めていると、道端に道祖神や天社神 (地神塔) などの石碑が集められている場所がありました。 |
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| 旧道から国道に合流、75km キロポストがありました。 |
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| 江戸から18里 (約70.7km) の押切坂一里塚跡に到着しました。石碑と令和4年 (2022年) 製の新しい説明板がありました。 |
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| 北塚には欅が、南塚には榎が植っていたそうです。 |
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| 押切橋で中村川を渡ります。すぐ目の前が河口で、相模湾に注いでいます。火口付近にある橋は自動車専用道路である西湘バイパスの有料区間です。 |
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| 押切橋を渡ったところで二宮町を抜け、小田原市に入りました。 |
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| 海岸線が間近に迫ってきました。 |
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| 東海道線と御殿場線の駅である国府津駅が国道からわりと近い位置にありました。 |
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| 建物の隙間から見える富士山がちょっとずつ大きくなってきた気がします。 |
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| 江戸から19里 (約74.6km) の小八幡一里塚跡に到着しました。塚には松が植っていたそうです。 |
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| 酒匂橋 (さかわばし) で酒匂川 (さかわがわ) を渡ります。江戸時代には橋はなく渡船で往来していたそうです。 |
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| 富士山が箱根の山々に覆われて見えなくなりそうです。 |
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| はるばる富士山麓から流れてきた酒匂川が相模川に注いでいます。 |
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| 東海道小田原宿と書かれた灯籠がありました。 |
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| 江戸から20里 (約78.5km) の小田原山王原一里塚跡兼小田原宿の江戸口見附跡に到着しました。ここが小田原宿の東の入口にあたります。小田原合戦の際には町ぐるみ堀で土塁で囲まれていたが、東海道整備の際に取り壊され枡形が作られたそうです。 |
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| 「江戸口見付 並 一里塚址」と彫られた石碑もありました。 |
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| 新宿町と彫られた石碑がありました。江戸初期の東海道の付け替えによって生まれた新しい町で、小田原宿の一部を形成したことが名前の由来のようです。旧道の道筋はこの先の新宿交差点で左、右と直角に曲がる桝形 (枡形) に入ります。 |
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| 桝形を超えた先の直線道路は「かまぼこ通り」という名前が付いていました。さっそく目の前に蒲鉾屋さんが数軒並んでいました。 |
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| かまぼこ通りをしばらく進むと「下の問屋場跡」と書かれた説明板がありました。小田原宿にはここのほか「上の問屋場」があったそうです。 |
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| 小田原宿脇本陣古清水旅館と書かれた看板と、その上には8月15日の小田原空襲の説明板がありました。終戦の日の深夜1時か2時頃、B-29 の焼夷弾空襲で400軒もの家屋が焼失、12名の死者が出たそうです。 |
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| 脇本陣跡のすぐ隣に本陣跡があり、小さな公園になっていました。 |
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| 小田原宿は箱根超えを控える宿場であることもあって本陣は4軒もあり、そのうちの1つ清水金左右ヱ門本陣がこの地にあったそうです。 |
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| 明治天皇も巡幸の際この本陣に宿泊されたとのことで、明治天皇宮ノ前行在所跡の石碑が建てられていました。 |
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| 小田原宿なりわい交流館にお邪魔してみました。昭和初期の網問屋を改装してできた交流施設で、観光案内所兼休憩所になっていました。小田原の見どころや東海道歩きのアドバイスなども頂けました。 |
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| 小田原宿の絵をペイントしたマンホールがありました。 |
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| 交流館ではマンホールカードも配布していました。 |
小田原宿 (9/53) ▶︎ 小田原城
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| 小田原に来たら小田原城にも寄っておきたいと思い、またまた寄り道。国道の箱根口交差点から一旦城方向へ向かい、小田原城址公園に入りました。 |
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| 美しい姿に再建された常盤木門を通って本丸へと進みます。 |
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| 昭和35年 (1960年) に復興された美しい天守閣に到着しました。せっかくなので中にも入ってみたいと思います。 |
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| 中には鎧や刀、掛軸などさまざまな資料が展示されていました。 |
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| 一番上まで上ってきました。本物のお城にはこのような展望デッキはありませんでしたが、観光施設としては大満足の設備です。 |
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| 南側の眺望。吾妻山で見た景色より真鶴・伊豆半島がぐっと近くになりました。 |
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| 東側の眺望。相模湾が一望できます。 |
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| 北側の眺望。小田原駅西口に建設中のタワマンも見えました。 |
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| 西側の眺望。これから上っていく予定の箱根峠方面が見えました。 |
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| 小田原城の模型が展示されていました。3重3階構造になっています。 |
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| 見学を終え、公園内に鎮座する報徳二宮神社に参拝しました。二宮尊徳を祭神として明治27年 (1894年) に創建された比較的新しい神社です。 |
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| 二宮尊徳翁の像がありました。全国の小学校に建立された金次郎像とは異なり、薪は背負っていません。などと思っていたら、薪を背負った金次郎像も鳥居の脇にちゃんとありました。 |
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| 江戸時代の図や発掘調査からかつての堀や土塁などの位置を推定した資料が展示されていました。もともとあった堀はだいぶ埋め立てられて現在の姿になっていることがわかります。 |
小田原城 ▶︎ 畑 間の宿 (9.5/53)
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| 箱根口交差点に戻ってきました。鮮やかな水色と黄色にペイントされた路面電車は、かつてこの地を走っていた小田原市内電車の車両だそうです。 |
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| 小田原市内電車は昭和31年 (1956年) に廃止されたものの、この車両はその後長崎で昭和60年 (1985年) まで活躍、令和3年 (2021年) にこの地に帰ってきたそうです。 |
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| 中の様子。さすが古い電車、冷房どころか扇風機もついていません。 |
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| 東京芝浦電氣 (現在の東芝) と刻まれた制御器。架線から受け取った電力をモーターに伝える割合 (加速度合) を抵抗回路の切り替えによって調整したり、モーターを抵抗につないで発電機化して制動 (ブレーキ) をかけたりします。もっとも、通常のブレーキは制御器の右にある空気ブレーキ (ハンドルは取り外されている) で行うようです。 |
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| 経歴書によると、大正14年 (1925年) に東京瓦斯電気工業が製造し、都電の全身の王電に配置されたのち小田原市内線にやってきたことがわかります。 |
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| 箱根大名行列は、なんと本日。ただし行列は旧街道の道筋はほとんど通らないので、街道歩きと行列見物の両立は難しそうです。 |
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| 国道が東海道線と箱根登山電車とクロスする少し手前に「人車鉄道 軽便鉄道 小田原駅跡」と彫られた石碑がありました。かつて豆相 (ずそう) 人車鉄道という人力車型の鉄道がここと熱海の間に通っていたそうです。 |
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| こちらは平成13年 (2001年) 建立の都市計画道路小田原早川線完成記念碑のようです。あと100年ぐらい経てばこうした石碑も史跡になるのかもしれません。 |
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| お昼ご飯は旧道沿いにあった「麺や品」というラーメン屋さんにしました。 |
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| 創作ラーメンのお店のようです。頑固おやじが営業中・・・。 |
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| 味噌エビバターラーメン (¥1,000) を頂きました。なかなか独特のお味でした。 |
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| 箱根登山電車の線路をガードの下を抜けてくぐり国道へ出たあと、君田島踏切で再び交差します。 |
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| 踏切を渡ったところに日蓮聖人霊跡と書かれた説明板がありました。日蓮が鎌倉から身延山に赴く途中にこの地を通って色々と祈願された地とのことです。 |
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| 左手のゲートを潜った先がその地ということでしょうか。 |
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| 緩やかな上り坂を進んでいきます。箱根八里はもう始まっているということですね。 |
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| 箱根登山電車の風祭 (かざまつり) 駅を小田急ロマンスカーが通過していきました。 |
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| 江戸から21里 (約82.5km) の風祭一里塚跡に到着しました。お地蔵さんと石祠、そして説明板がありました。 |
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| 榎が植っていたそうです。 |
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| 入生田 (いりうだ) 踏切で再び箱根登山電車を交差します。ここではレールが3本になっていました。三線軌条といい、小田急規格と登山電車規格の両方の車両が往来できるようにこうなっているようです。 |
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| 3本のレールは箱根湯本駅まで伸びているようです。 |
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| 日本初の有料道路と書かれた説明板がありました。明治8年 (1875年) に小田原と湯本の間に日本初の有料道路が開通したとのことです。福沢諭吉が建設を働きかけ、二宮尊徳の弟子が建設の先頭に立ったそうです。 |
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| やたらと目につくこの石碑は交通安全之碑。軽く調べてみると「交通安全だるま」と呼ばれ地元で親しまれているそうです。 |
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| 登山電車の線路脇に 40‰ (= 4%) の勾配標がありました。小田急規格の電車が上れる限界の勾配のようです。ちなみに小田急規格の電車が入れない箱根湯本から先には 80‰ (= 8%) の勾配があるようです。まさに登山電車。 |
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| 急勾配を普通列車がゆっくりと下っていきました。 |
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| 山崎ノ古戦場と彫られた石碑がありました。幕末に起きた戊辰箱根戦争の舞台だそうです。 |
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| 予告看板の通り、国道1号は大渋滞になっていました。 |
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| 電車にもたくさんの観光客が乗っているようでした。 |
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| 三枚橋で早川を渡り国道1号から離れます。 |
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| 大名行列に伴う交通規制の案内。現在一は図中の一番下あたりで、ちょうど規制にかからない左側の道が旧街道です。 |
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| 三枚橋を渡っていたところ、箱根湯本駅を発車したロマンスカーが見えました。 |
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| 大名行列のポスターがありました。とても盛り上がりそうです。 |
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| 旧道はなかなかの急坂になっていました。 |
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| 湯本茶屋案内図がありました。この先石畳があるようで楽しみです。 |
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| 江戸から22里 (約86.4km) の湯本茶屋一里塚跡に到着しました。石碑や説明板が立っていました。右手の説明板には白川洗石生家跡とあり、箱根細工の創始者の地だそうです。 |
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| 石畳の入り口にやってきました。小田原の交流館の人に石畳を歩く際は注意するようアドバイスを受けていたことを思い出しました。 |
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| ここから先約 255m は江戸時代の面影を残しており、国の史跡に指定されているそうです。楽しみです。 |
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| 石畳が現れました。ちょっと歩きにくいので注意しながら進みます。 |
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| 一気に街道歩きの風情になってきました。テンションが上がります。 |
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| だんだん慣れてきました。 |
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| 車道に合流しました。写真は歩いてきた石畳を振り返ったところ。 |
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| 箱根に来たら温泉は外せないということで、天山湯治郷に寄り道することにしました。ほとんどの観光客が大名行列の見物に行っているためか思ったよりも空いていました。 |
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| 谷間を下っていき、こちらから入ります。 |
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| 雰囲気ある建物が姿を現しました。 |
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| あまりの気持ちよさに1時間近く入っていました。湯上がりはこちらの廊下を通って休憩所へ。 |
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| さて、まだ峠道はこれからなので、そろそろ天山湯治郷を後にします。 |
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| 葛原坂と書かれた説明板がありました。その名の通りクズの葉が生い茂る坂とのことです。 |
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| 須雲川と書かれた説明板がありました。箱根道を往来する人々のため、また道を維持管理するために一定の間隔をおいて集落がおかれており、ここはそのうちのひとつだそうです。 |
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| 須雲川自然探勝歩道と書かれた案内板がありました。旧東海道の道筋とは重なったり重ならなかったりするようです。いったんここは車道を進むことにしました。 |
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| 箱根大天狗山神社の大きな鳥居がありました。なにか様子がおかしいなと思って調べてみると、その実態は神仏習合の新興宗教のようでした。 |
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| 車道から石の階段が伸びており、入口に割石坂と書かれた説明板がありました。蘇我五郎が富士の裾野に仇討ちに向かう時、腰の刀の切れ味を試そうと路傍の巨石を真二つに切り割ったと伝えられているそうです。 |
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| 「これより江戸時代の石畳」と書かれた案内板がありました。心して踏み締めていきます。 |
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| 木漏れ日が石畳を照らして幻想的な雰囲気になっていました。 |
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| 箱根路のうつりかわりと書かれた説明板がありました。時代が変わるにつれて新たな道が開拓され移り変わっていったことがわかります。現在は図中の赤で示された道筋を辿っているところです。 |
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| 接待茶屋と書かれた説明板がありました。箱根八里を往還する旅人や馬に湯茶や飼葉を施す接待茶屋がこのあたりに設置されていたそうです。そういえば中山道の和田峠にも接待茶屋があったことを思い出しました。 |
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| 須雲川自然探勝歩道の看板が再びありました。 |
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| いったん車道に出たあと再び脇道へ進みます。この先に大澤坂があるはずです。 |
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| 沢を渡るところに橋が設置されていました。 |
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| 美しい石畳が出現し、構造を示した断面図も展示されていました。土手や排水路などを機能的に設計し敷設されていたことがわかります。 |
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| 大澤坂の石畳を上っていきます。 |
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| 結構急な坂になってきました。 |
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| 斜めの排水路について解説している板がありました。敷き詰める石のサイズも変化させながら、道に溢れ出ないように工夫していたようです。 |
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| 少しひらけてきました。この先が間の宿である畑宿です。 |
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| 畑宿の本陣跡に到着しました。ここの日本庭園に (直前に関所で一悶着あった) 米外交官のハリス・タウンゼントが心和んで機嫌がすこぶる良好になったというエピソードがあるそうです。また明治天皇が巡幸の際に小休ならせられた聖蹟でもあるとのことです。 |
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| 明治天皇御駐蹕 (ごちゅうひつ) 之趾と彫られた大きな石碑がありました。ここで休憩なされたことを記しています。 |
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| 寄木細工の工房の壁に東海道五十三次の宿場が紹介されていました。 |
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| 車道から脇道に入り、一里塚へと向かいます。 |
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| 江戸から23里の畑宿一里塚に到着しました。現在の塚は発掘調査や文献などから復元したそうです。とても美しい塚の姿がありました。 |
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| 街道の道筋の両脇に2つの塚が復元されていることがわかります。植っている木も文献を元に再現し、右手はモミ、左手がケヤキとのことです。 |
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| 風化から守るのも大変そうです。 |
畑 間の宿 (9.5/53) ▶︎ 箱根宿 (10/53) 箱根関所
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| 畑を抜け、さらに標高を上げていきます。こちらも石畳になっていました。 |
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| 西海子坂と彫られた石碑と、その横に説明板がありました。石畳が敷かれる以前は竹を敷いて雨雪の後の悪路を軽減していたそうですが、大変な労力が掛かっていたそうです。 |
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| 再び車道に出たところで、上り勾配 10.1% の急勾配に連続カーブの「七曲り」に入りました。 |
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| 箱根新道ともクロスしながら勾配を上がっていきます。 |
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| 7回曲がったところで旧道が分岐し、橿木坂 (かしのきさか) の石碑・説明板がありました。ここは箱根八里の中でも特に難所だったそうです。車道のほうはさらに追加で何回か曲がるようです。 |
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| 左手の見晴橋を渡るとしばらく石畳の道が続きます。 |
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| 雲助と呼ばれる荷物の運搬や馬の案内、駕籠担ぎなどを担った人たちに関する説明板がありました。箱根の雲助は小田原の問屋場で働く人足たちが担っていたようです。 |
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| 猿滑坂の石碑と説明板がありました。猿でもたやすく登ることができないという難所らしい名前の由来が書かれていました。 |
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| 石畳は関東大震災 (1923年) や北伊豆地震 (1930年) などで大半が崩壊、埋没したそうですが、残された一部の石畳を再現し県が整備したそうです。 |
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| 車道を渡って再び歩道に入りました。 |
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| 「親鸞上人と笈ノ平」と書かれた説明板と、その奥に大きな石碑がありました。京都への帰路の途中、この地で連れてきた4人の弟子のうち2人を東国に戻したそうです。 |
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| 追込坂の説明板がありました。「甘酒茶屋までのゆるい坂道の名」とありますが、目の前の階段は結構急です。 |
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| 猪注意。 |
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| 古道らしい雰囲気が濃くなってきました。 |
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| 切り株の上に石と小銭がたくさん乗っていましたが、詳細は不明です。誰かが石や小銭を置き、後にたくさんの人が便乗した感じでしょうか。 |
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| 元箱根まで40分との案内板がありました。また奥の説明板には江戸時代に敷設された石畳の区間であることが記されていました。 |
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| 綺麗に整備された石畳上を上っていきます。 |
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| ゆるやかなカーブがいい味を出しています。 |
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| 石畳は文久2年 (1863年) の14代将軍家茂が上洛する際に大きく改修されたそうです。 |
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| 箱根馬子唄の碑がありました。左手は箱根山を構成する山である二子山に関する説明板でした。 |
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| このあたりは江戸時代の東海道が鎌倉時代の東海道と交わる地点と推定されているそうです。 |
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| 一瞬だけ芦ノ湖が見えました。 |
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| 権現坂の石碑と説明板がありました。いままでずっと上ってきましたが、ここから芦ノ湖畔へと下っていきます。 |
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| 芦ノ湖が近づいてきました。 |
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| 大名行列の一連のイベントが終わった後で道路は大渋滞、バス待ちの長蛇の列で歩行者も多数という混雑ぶりでした。 |
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| 芦ノ湖のほとりまでやってきました。 |
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| 芦ノ湖の奥に富士山も見えました。回送中のスワンボードの列が横切っていきました。 |
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| 江戸から24里の葭原久保 (よしわらくぼ) 一里塚跡に到着しました。塚は残っていないように見えます。 |
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| 復元された箱根関所に到着しました。江戸口御門から関所に入ります。関所の中は調査をもとに江戸時代の姿をほぼ完全に再現されているそうです。 |
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| 無事に京口御門を通過。 |
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| 箱根関所前のバス停から小田原行きの路線バスで帰路に就きました。 |















































































































































































