中山道六十九次 (15/16) 武佐→大津
東京の日本橋から旧中山道経由で京都の三条大橋を目指すウォーキングの15日目です。全行程のリンクと注意事項、アドバイスなどはこちらをご覧ください。
概要
- 活動日: 2023年7月16日
- 歩行距離: 37.9km
- 獲得標高: 🔺179m 🔻181m
- 出発: 05:16 武佐宿 (ビジネスホテルシェル)
- 到着: 18:38 大津宿 (東横INN京都琵琶湖大津)
- 合計時間: 13時間29分
- 休憩時間: 3時間30分
- 旧街道足跡マップ: https://kaidotrail.github.io/nakasendo.html
- ヤマップ活動記録: https://yamap.com/activities/25511504 (2日目)
記録
武佐宿 (66/69) ▶︎ 鏡 間の宿 (66.5/69)
| ホテルから西の方角、京都方向を眺めたところ。琵琶湖は見えませんが、遠くの山並みは見えます。 |
| ホテルから北の方向。手前に新幹線の線路があります。 |
| 朝5時過ぎにホテルを出発。琵琶湖南端を超えた先の大津を目指します。 |
| 灯籠のある公園に戻ってきました。ここから本陣前をもう一度歩いてから西進していきます。 |
| 広重の木曽海道六十九次の武佐宿の絵と、その解説がありました。宿の西側を流れる日野川 (横関川) の渡は水量が少ないときは船を繋いで作った仮設の船橋で川を渡っていたそうです。 |
| 武佐宿本陣に再訪。正面に見える表門のほか土蔵も現存しているそうです。 |
| 小学校卒業生が制作したらしい高札場跡の看板がありました。 |
| 近江鉄道の武佐駅に到着しました。駅舎が街道の雰囲気に合わせてあるようです。そして駅名標に中山道と書かれています。 |
| 踏切で線路を渡ります。 |
| 大きな木と、その足元に看板がありました。 |
| 「伊庭貞剛翁 生誕の地」と書かれていました。伊庭貞剛はこの地で生まれ育ち、裁判官を経て住友に入社、別子銅山の公害対策や植林事業などで活躍し、住友の総理事にまで上り詰めたお方とのことです。 |
| ブルーメの丘って何だろう・・・と思って調べてみると、中世ドイツをイメージした体験型農業公園とのこと。しかし 21km 先とはだいぶ遠いです。 |
| 住蓮坊首洗い池と書かれた説明板がありました。弾圧を受けたお坊さんが処刑された地だそうです。 |
| 国道に合流ししばらく進むと、道端に狛犬と大きな鳥居が鎮座し、奥に参道が伸びていました。鳥居には八幡宮と書かれています。 |
| なんと、本殿が重要文化財に指定されているそうです。本殿は桃山時代の文禄5年 (1596) 年に建立されたものだとか。 |
| 手前が拝殿、奥が本殿です。昨日立ち寄った石清水神社と同じレイアウトでしたが、こちらの拝殿の見た目は大きな神社によくある舞殿っぽい感じです。 |
| 本殿前の門までやってきました。道中の無事を祈願しました。 |
| 祭神は応神天皇。一説によると源義家が開いたと伝わるそうです。本殿は元亀2年 (1571年) に織田信長の兵火に焼失も文禄5年 (1596年) に再建され、解体修理も経て今に至るそうです。 |
| 別角度からもパシャリ。 |
| 神社の入り口に高札所跡と彫られた石碑がありました。 |
| 突然北側の視界が開けて田園風景になりました。右手の山地の奥が琵琶湖のはずですが、摺針峠以来ずっと湖面は見えません。 |
| 旧道の道筋をひたすら進み、日野川と当たるところまで来たところで道が途絶えており、日野川の渡し跡を示す説明板がありました。橋が架けられたのは明治になってからで、昭和初期まではここに橋が残っていたそうです。河原に下りると橋の名残が残っているんだとか。現在は上流側に架かる新しい横関橋に迂回する必要があります。 |
| 国道方向に迂回する道を歩きます。本来の中山道からは外れますが、草道を歩くのは心地よいです。 |
| 背の高い草が生い茂っていて川面を伺うことができません。 |
| ようやく見えました。少し川幅が狭まっているところがかつての橋の跡でしょうか。 |
| 川筋は横関橋の先で大きく蛇行しています。 |
| 横関橋を渡り、旧道の道筋へ復帰するため脇道に入ります。中仙道の案内板がありますが、車は入れないようチェーンが張ってありました。 |
| コンクリートブロックのようなものが積まれてでできた道筋が見えました。 |
| 下流側から見ると、杭のようなものも見えます。 |
| 国道とクロスして再び脇道へ。美しい田園風景が広がっていました。 |
| 旅篭亀屋跡と書かれた看板がありました。ここは鏡の宿という間の宿だったようです。 |
| こちらは旅篭京屋跡。 |
| 旅篭枡屋は空き地になっていました。 |
| 鏡郵便取扱所跡は鏡郵便局の前身のようです。 |
| 源義経宿泊の館跡と彫られた石碑がありました。 |
| ここは平安時代の東山道の駅があった場所でもあり、ここにあった白木屋という館がその駅長で、義経はそこに宿泊されたとのことです。 |
| 鏡の宿の本陣跡と書かれた看板がありました。間の宿なのに本陣!?と思いましたが、大名もここで休憩されたということでしょうか。 |
| 鏡神社へ参拝しようと参道に入ったところに松の幹があり、鳥帽子掛けの松と書かれた説明板がありました。鏡神社は牛若丸 (源義経) が元服 (成人式みたいなもの) の際に源氏再興を祈願し源義経として名乗りをあげた神社だそうで、その際にこの松枝に鳥帽子 (えぼし) を掛けたとのこと。明治6年 (1873年) の台風で折れてしまい、幹の部分のみ残されたそうです。 |
| 本殿、宝篋印塔、石灯籠がそれぞれ重要文化財に指定されているそうです。本殿は室町中期に建てられたもの。石灯籠は応永28年 (1421年) の銘があるそうです。 |
| 「鏡の里 散策 MAP」がありました。歩いてきた旧道が「旧東山道 (平安・鎌倉) →旧中山道 (近世)」と書かれていました。 |
| 鏡大明神と書かれた鳥居をくぐります。 |
| 室町中期のものとされる本殿と、この付近から発見された古墳時代後期から飛鳥・奈良時代の須恵器と呼ばれる土器について書かれていました。 |
| 手前は独立した拝殿で、奥に本殿があります。たまたまかもしれませんが、滋賀県に来てからこのレイアウトの神社が多くなったように感じます。 |
| 本殿にやってきました。丸みを帯びた屋根が美しいです。 |
| 参拝後、反対方向からもパシャリ。 |
鏡 間の宿 (66.5/69) ▶︎ 守山宿 (67/69)
| 「道の駅 竜王かがみの里」の先で旧道に入ってしばらく進むと明治天皇聖蹟と彫られた巨大な石碑がありました。巡幸の際にこのあたりで宿泊されたそうです。 |
| 道端に中山道について記された説明板がありました。東山道の頃はこのあたりに篠原駅があったそうですが、鎌倉時代頃より宿場は鏡の方へ移っていったとのことです。 |
| 平家終焉の地と書かれた看板や幟がありました。寄り道してみます。 |
| 平家終焉の地と書かれた説明板と塚がありました。壇ノ浦を生き延びた平家の父子 (平宗盛、平清宗) がいたが、一旦鎌倉に連行され、その後京都へ向かう途中にこの地で斬首され、胴をここに埋め首は京都に持ち帰ったとのことです。 |
| 塚には平宗盛と平清宗の名前が書かれた卒塔婆が供えられていました。「平宗盛公八百三十九回忌菩提」「平清宗八百三十九回忌菩提」と書かれています。現在まで供養が受け継がれているのですね。 |
| 小さな池の跡のようなものがありました。 |
| 平宗盛公胴塚「首洗池復元」事業と書かれた説明板がありました。斬首された際に胴はこの地に埋葬されましたが、首はここにあった池で洗って京都の六条河原で晒されたそうで、その池を復元しようとしているそうです。 |
| 塚から街道に戻って少し進むと蛙不鳴池という池がありました。宗盛の首を洗ってから蛙が鳴かなくなったという伝説があるそうです。 |
| 街道脇に村田製作所の巨大な敷地が広がっていました。 |
| 江戸から126里 (約494.8km) の大篠原一里塚跡に到着しました。塚は残っておらず、道の北側に説明板がありました。 |
| 再び東山道の篠原駅について書かれた説明板がありました。 |
| 日が昇りだいぶ暑くなってきたところにバス停のような休憩場所があったので覗き込むと「中山道 三ッ坂立場 このあたり」と書かれた看板がありました。 |
| 小学校のある交差点に到着したところ、外和木の標と書かれた説明板がありました。朝鮮人街道との分岐点にあたる場所だそうです。昨日の昼に鳥居本宿で蕎麦を食べたあたりに彦根道の道標がありましたが、そこから分岐した道がここに通じていることがわかりました。朝鮮人街道は朝鮮通信使が通った道であることからそう呼ばれているそうです。 |
| ちょうどこのあたりが野洲 (やす) の中心地のようです。ここから交差点を別方向に進めば安市役所や東海道本線の野洲駅に行くことができます。 |
| 小学校沿いの道を少し進んだところに朝鮮人街道分岐点を示す標識がありました。ここが本当の分岐点のようです。 |
| 交差点に地蔵堂がありました。二体の石像が並んでおり、左手奥の説明板によるとどちらも鎌倉時代のものだそうです。右側の地蔵は、子を持つ親たちが「我が子もこのお地蔵さんくらいになれば、あとはよく育つ」と背くらべをさせるようになり、「背くらべ地蔵」と呼ばれるようになったそうです。左側は阿弥陀如来像とのことです。 |
| 少し進んだところにも地蔵堂がありました。その奥は神社のようです。 |
| 野洲川橋で野洲川を渡ります。鈴鹿山脈の御在所岳が源流で、途中で旧東海道と並行しながら北西に進み、琵琶湖に注いでいます。 |
| 東海道本線の新快速電車が通過していきました。12両編成で結構長いです。 |
| 交差点をいくつか過ぎたらとても狭い道になりました。しかし車が次々とやってきます。電柱がせり出しているので、ちょくちょく足を止めて車をやり過ごしながら進みます。 |
| 狭い上に急カーブまで。 |
| 「中山道高札場跡、稲妻型道路」と書かれた説明板がありました。かつてこのあたり (吉見) は守山宿の加宿として栄えていたそうで、"稲妻型道路" があり、高札場も置かれ、石部道 (伊勢道) も分岐していたとのこと。なるほどこの道を支えば草津宿をショートカットして伊勢詣に向かえそうです。稲妻型道路というのは桝形のことですね。 |
| 小さな川を渡ったところに守山宿の標柱がありました。中山道が東海道と合流する草津宿の1つ手前の宿にあたります。 |
| 緩やかなカーブを取り囲むように商店などが立ち並んでいます。 |
| 「すぐ いしべ道」と彫られた道標がありました。やはり中山道から草津宿をショートカットして東海道に渡る道として使われていたようです。左側面には「高野郷新善光寺道」とあり、石部道沿いにある新善光寺へ案内するものだそうです。 |
| うの家という町家があり、なんと宇野元総理の生家だとか。開館中のようなのでお邪魔してみます。 |
| カフェになっている米蔵の隣にある大正3年 (1914年) 建築の東蔵。中の様子は・・・。 |
| ちょっと蒸し暑かったです。 |
| 南庭まで出て振り返ったところ。蔵と屋敷がくっついています。 |
| 屋敷の中にも入ってみました。落ち着いた雰囲気です。 |
| 見学を終えて出てきたところ。カフェは何か催し物をやっているようでびっくりするぐらい賑わっていました。 |
| 守山宿の本陣跡に到着しました。皇女和宮もここに宿泊されたとのこと。平成16年 (2004年) まではここに郵便局の建物があったそうですが、取り壊されて今に至るそうです。 |
| 道標がありました。「左」はお寺の名前と距離などが彫られているようです。「右」は「中山道 并 (ならびに) 美濃路」とはっきり読めます。 |
| 説明板がありました。「左」は「錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」だそうです。「こ乃者満ミち」は琵琶湖の「木浜港」に至る道であることを示しているそうです。 |
| 守山寺の山門の前に明治天皇聖蹟と彫られた石碑がありました。明治11年 (1878年) に行きと帰りの2度境内にある守山小学校で休息されたそうです。 |
守山宿 (67/69) ▶︎ 草津宿 (68/69)
| 江戸から128里 (約502.7km) の今宿一里塚に到着しました。垂井以来の久々の現存一里塚。少し削られていますが、南塚が残っています。 |
| 石碑と説明板に加えてベンチも設置されていました。ありがたいです。滋賀県内に現存する唯一の一里塚だそうです。先代の榎は昭和中頃に枯れてしまったものの、脇芽が成長して今の姿になったそうです。 |
| 草津市に入りました。東海道と合流するまであと少しです。 |
| 東海道本線の線路を狭いトンネルでくぐります。すぐ上を貨物列車が走っていて、トンネルの高さが低いこともあいまって凄まじい迫力でした。 |
| 腰を落としながらのそのそと進んでトンネルを抜けました。ここで90度右折します。 |
| トンネルを背にした左手方向は、廃道のような雰囲気になっていました。 |
| トンネルを背にして右手の様子。こちらを進んでいきます。 |
| 細い道を抜けて振り返ったところ。中山道と記された道標が正しい道を通ってきたことを示しています。 |
| 草津歴史街道と書かれた説明板がありました。砂川 (旧草津川) を超えるといよいよ東海道との合流地点である草津追分です。 |

| 草津駅前の賑わいを通り過ぎ、覚善寺に寄り道。山門前に「大路井道標」が置かれていました。 |
| 明治時代に草津川マンポ (天井川である草津川をくぐるトンネル) の建設により東海道の新しい道筋「大路井」が建設され中山道と東海道の追分がここに移った際に建てられたそうです。 |
| 草津川マンポをくぐり、元々の草津追分に到着しました。文化13年 (1816年) に建てられた道標で、「右 東海道いせみち」「左 中仙道美のぢ」と彫られています。「美のぢ」は「美濃路」のことですね。 |
| 道標のアップ。上部の常夜燈の火袋の部分は何度も取り替えられたものの、道標部分は当時のものが残っているそうです。 |
| 道標の説明がトンネル入口の壁面にもありました。この地を描いた名所図絵も紹介されていました。 |
| 草津川ずい道の由来を記した説明板もありました。明治19年 (1886年) にトンネルが完成するまでは、ここを通行するには川の上り下りが必要だったそうです。 |
| 道標の反対側には高札場が再現されていました。 |
| 東海道と中山道が出会うまち草津宿と書かれた看板がありました。 |
| 草津宿本陣に到着しました。公開中とのこと。せっかくなので見学してみようと思います。 |
| 建物に入ると長い廊下が伸びていました。ふすまを入れ、一番身分が高い人がどこにいるかわからないようにしているとのこと。所々撮影禁止の物品があるので注意しながら進みます。 |
| 雪隠 (せっちん)、いわゆるトイレです。 |
| 庭の奥に明治天皇草津行在所の石碑がありました。 |
| 湯殿にお邪魔します。お偉いさん専用です。床の溝で排水できる仕組みになっているようです。浴中に刀で襲われないよう、風呂桶が中央に配置されているとのことです。 |
| 炊事場も大規模です。 |
| 庭に出てみました。井戸も完備。 |
| 草津宿には本陣が2軒あり、こちらがもう1つの本陣の跡とのことです。 |
| お腹が空いてきたのでカフェでご飯を食べることにしました。 |
| カレーオムライスをいただきました。なかなか味わい深かったです。 |
| 草津宿街道交流館にやってきました。実は、本陣の入場券を買ったときにこちらも見学できる共通券をチョイスしていました。 |
| 版画体験コーナーがあったのでチャレンジしてみました。 |
| ごしごしごしごし・・・。 |
| 力を入れ過ぎてしまったようで、余白がだいぶ移ってしまいました。 |
| 完成見本。広重の東海道五十三次の草津宿の様子です。 |
| あさげとゆうげの様子。とてもおいしそうです。 |
| 宿場の様子を再現した模型がありました。右手に草津川が流れており、中山道方面は川を上り下りする必要があったことがわかります。 |
| 江戸時代の旅の費用は、京都江戸間を約15日で行くとして約6,000文かかったそうです。現代のお金に換算すると60,000円ぐらいだそう。 |
草津宿 (中山道68/69・東海道52/53) ▶︎ 大津宿 (中山道69/69・東海道53/53)
| 草津宿からは東海道との共通区間ですが、道案内は全て東海道基準に変わり、江戸から東海道経由で119里 (約467.3km) の野路一里塚跡に到着しました。中山道経由だと129.5里 (約508.6km) ぐらいです。 |
| 塚はありませんが、公園の中に石碑やモニュメント的な土盛りがありました。 |
| 一里塚跡は野路上北池公園として整備されていました。 |
| 萩の玉川と彫られた石碑が小さな池の奥に立っていました。 |
| 説明板も発見、景勝地として多くの貴族や詩人などが訪れ歌を詠んだそうです。また中世の頃には野路駅が置かれ宿場として栄えていたそうです。 |
| 突然大きな池が視界に飛び込んできました。地図によるとこの池は弁天池で、小島には弁財天があるようです。 |
| 細いコンクリートの橋で弁財天のある小島に繋がっていました。 |
| 橋を渡って弁財天さまに参拝。ここだけ日差しから守られ別世界のようです。 |
| 月輪寺という曹洞宗のお寺の参道に明治天皇御東遷御駐輦之所と彫られた石碑がありました。このお寺で休憩されたのでしょうか。その隣には新田開発発祥之地と彫られた石碑もありました。 |
| 細い道を進みます。このあたりは一里山という地名で、一里塚に由来してそうです。 |
| 江戸から東海道経由で120里 (約471.3km) の大萱一里塚跡に到着しました。月輪池一里塚跡とも呼ばれています。塚は明治期に消失も、大きな石碑と説明板が置かれていました。中山道経由だと130.5里 (約512.5km) ぐらいになります。 |
| 暑さでバテバテになりながらも水分補給を繰り返し、有名な瀬田の唐橋までやってきました。かつては瀬田川にかかる唯一の橋で、琵琶湖周辺を陸路で移動する際の最重要拠点でした。 |
| 瀬田の唐橋から琵琶湖方面を眺めてみました。国道1号の瀬田川大橋が遠くに見えました。 |
| 瀬田の唐橋を渡った先から何度か京阪石山坂本線の線路とクロスしていたのですが、ようやく姿が見えました。しかも、なんとも賑やかなアニメ「響け!ユーフォニアム」のラッピング。京都アニメーションのスタジオのある宇治が舞台らしいので、京阪電車は舞台巡りにぴったりですね。 |
| 所々わかりづらいですが、右へ左へと曲がりながら細い道を進みます。地図で見ると概ね琵琶湖の南岸に沿って北西に進んでいる感じですが、ずっとこんな風景なので方向感覚を失ってしまいそうです。 |
| 交差点からお城の天守のような建物が見えました。後で調べると、琵琶湖畔に建つ滋賀県立琵琶湖文化館という建物のようでした。 |
| 見事な一直線になりました。予約していたホテルはこの先です。 |
| 此付近露国皇太子遭難之地と彫られた石碑がありました。有名な大津事件 (明治24年にロシアの皇太子が切り付けられて負傷した事件) の舞台がここだそうです。 |
| 途中で道幅が少し広がり、電柱が取り払われ、舗装が石タイルになりました。美しい街並みです。 |
| 予約していた東横イン京都琵琶湖大津に到着しました。滋賀県内ですが京都を名乗っているのが面白いです。 |
| ホテルからは京方向の山並みが見渡せました。地図で見ると大文字山の反対側にあたるようです。もう少し北側を見渡せれば比叡山も見えたはず。 |