中山道六十九次 (14/16) 醒井→武佐

東京の日本橋から旧中山道経由で京都の三条大橋を目指すウォーキングの14日目です。全行程のリンクと注意事項、アドバイスなどはこちらをご覧ください

概要

記録

醒井宿 (61/69) ▶︎ 番場宿 (62/69)

新幹線で米原に行ったあと、東海道本線で1駅戻って醒ヶ井駅に到着しました。ここから3日間の中山道歩きの最終パートがスタートです。

醒ヶ井駅を後にして旧中山道へ向かいます。

旧中山道との交差点に到着しました。右折して京方向に進みます。

「一類孤魂等衆」と書かれた墓跡のような石碑。全く意味がわからないと思ったところに説明板が。助かります。

「母親の乳がのみたい・・・」とつぶやく旅の老人。誰にも相手にされず、気の毒に思った一人の母親が自分の乳房をふくませてやると、老人はおいしそうに飲み、そして安らかに往生をとげたとのこと。この石碑は老人が埋葬された墓地の傍に建てられたものだそうです。えぇぇ・・・。

「中山道 河南」と書かれた案内板がありました。この右手の脇道が旧中山道の道筋になります。

水路沿いの落ち着いた街並みの中を進みます。車は軽しか通れなさそうな小さな橋がたくさんありました。

街道脇にある敬永寺は浄土真宗大谷派のお寺。このあたりはお寺やお地蔵様がたくさんありました。

史跡案内図がありました。現在は図中央付近で、右上から左下へと歩いているところです。しっかり旧中山道の道筋を辿れていることも確認できました。

江戸から117里 (約459.5km) の久禮 (くれ) 一里塚跡に到着しました。米原JCTで名神高速から北陸道が分岐する場所のすぐ脇に石碑などが置かれていました。

大きな石碑が置かれていました。

Hマン (笑)

番場宿に到着しました。問屋場跡の石碑がありました。

「番場の忠太郎像」、忠太郎は戯曲「瞼の母」の主人公だそうです。

米原の文字の上にあるのは・・・指差しマーク!?米原汽船・汽車道を示す道標のようです。明治時代ぐらいのものでしょうか。

脇本陣跡の石碑を見つけました。その奥は問屋場跡。

本陣跡の石碑も発見しました。

明治天皇番場御小休所の石碑がありました。

街道から東に伸びる蓮華寺の参道の入口。蓮華寺は鎌倉時代末期に京都から鎌倉へ逃げる途中だった北条仲時の自刃の地とのことです。

番場宿内の様子。わずかな上り坂が続きます。

街道から北野神社の参道が伸びていました。道中の無事を祈願してきました。

「中山道 西番場」「古代東山道 江州馬場駅」と彫られた石碑がありました。

番場資料館が開館していました。せっかくなのでお邪魔していきます。

この建物は彫刻家の泉亮之氏の家だった建物とのことです。案内係の方から色々と説明を受けたあと、鳥居本宿においしい蕎麦屋さんがあると教えてもらいました。

番場の忠太郎にまつわる展示もありました。番場宿の入口で像にもなっていた戯曲の主人公ですね。

中山道分間絵図の番場宿の様子。右手には蓮華寺が描かれています。

番場宿の石碑。ここからはいよいよ摺針 (すりはり) 峠です。

番場宿 (62/69) ▶︎ 摺針峠

オニユリでしょうか。とても大きな花を咲かせていました。

名神高速が大渋滞になっていました。

名神高速の上り線の上を中山道がかすめます。

道端に湧水がありました。

この湧水は泰平水というそうです。

三叉路に道標が建っていました。左が番場・醒井方面、右が摺針峠・彦根方面。右折して進みます。

江戸から118里 (463.4km) の摺針一里塚跡に到着しました。平成23年 (2011年) 製の新し目な石碑が建っていました。

称名寺は浄土真宗本願寺派のお寺。ここを過ぎると峠はもうすぐそこです。

摺針峠に到着。神明宮と書かれた鳥居がありました。

参道を上ると、小ぶりな社殿がありました。道中の無事を祈願しました。

境内からは琵琶湖が見えました。なかなか達成感があります。左奥に見える白い塔はフジテックのエレベーター研究棟の「ビッグウィング」だそうです。

明治天皇摺針峠御小休所と書かれた石碑がありました。

石碑と琵琶湖をセットでパシャリ。

かつてここに望湖堂という大きな茶屋があったそうです。本陣構えで大変栄えていたことから周辺の宿場に疎まれるほどだったとのことです。

琵琶湖の眺望に後ろ髪をひかれながら峠を後にしました。

摺針峠 ▶︎ 鳥居本宿 (63/69)

原道が残っており、せっかくなのでそちらを下っていくことにしました。

草が生い茂っていて少々不安になりつつも、手すりがかろうじてここが道であることを示してくれています。

なかなかの急斜面です。

だいぶ下ってきました。

一旦車道に出ました。

再び原道へ。

紫陽花が咲いていました。

丸太で沢を渡ります。

おっと、だいぶぬかるんでいました。端っこを通りましたが、靴には泥がかなりついてしまいました。

下りてきた道を振り返ったところ。

峠道の入口には摺針峠望湖堂の石碑が建てられていました。

道筋を少し外れたところに道標がありました。

「右 中山道 摺針 番場」「左 北國 米原 きの本 道」とあります。「きの本」は琵琶湖北端東側の地域「木ノ本」を指していると思われます。北陸へ至る北国街道が中山道から分岐する地点であることがわかりました。なお、目の前の走る国道は京都と新潟を結ぶ R8 で、現代の北陸街道 (北陸道) といえます。

おいでやす彦根市モニュメント。ついに関西弁圏内に来たんだなと実感する瞬間です。

鳥居本 (とりいもと) 宿に到着しました。立派な門も手前に明治天皇鳥居本御小休所の石碑がありました。

鳥居本宿の様子。立派なうだつの上がった家が並んでいました。

説明板が貼ってある歴史のありそうな建物がありました。

説明板には岩根家住宅と書かれていました。合羽の製造を営んでいた商家だそうです。軒先に掲げられていた変わった形の看板は合羽の看板だったのですね。

鳥居本宿の説明板がありました。先ほどの合羽屋さんは木曽路に向かう旅人に評判だったそうです。鳥居本お宝発見隊さん、素敵な説明板ありがとうございます。

旧本陣寺村家と書かれた説明板がありました。明治になって和風洋館に建て替えられ、登録有形文化財にも指定されているそうです。

街道から直角に伸びる道の先に近江鉄道の鳥居本駅がありました。近江鉄道は米原から東海道の水口宿に近い貴生川駅の間を結んでおり、街道ウォーカーにも便利そうな路線です。

「江戸へ百十八里・京へ十八里」「江戸から六十三番目 とりいもと宿」と書かれた看板がありました。京都まで 70km ちょっとということになります。

「旧脇本陣・問屋場 高橋家」と書かれた説明板がありました。宿内に2軒あった脇本陣のうちの1つだそうです。

立派な家が立ち並んでいて良い雰囲気です。

こちらも歴史がありそうです。しかも説明板と登録有形文化財のプレートが見えました。

説明板には成宮家住宅と書かれていました。明治期・大正期の建築で、防火のための袖壁や虫籠窓が特徴的です。

専宗寺は浄土真宗本願寺派のお寺。とても高さのある立派な山門が目を引きます。

番場資料館の方に教えてもらったお蕎麦屋さん「百百百百」に到着。「どどもも」と読むそうです。建物「百々家住宅」は有形文化財にも登録されており、プレートが設置されていました。

大変な賑わいで20分ぐらい待ってようやく入店。絶品のとろろそばと角煮丼でスタミナを付けました。それにしても、店員や聞こえてくる話し声が全て関西弁で、峠を越えるとこんなに変わるものかと少し驚きました。

丁字路の角に「左 中山道 京 いせ」「右 彦根道」と彫られた道標がありました。彦根道は朝鮮人街道とも呼ばれているそうです。

鳥居本宿 (63/69) ▶︎ 高宮宿 (64/69)

鐘突堂と書かれた案内板がありましたが、案内板以外に特に痕跡は見当たりません。

八幡神社の参道の入口には大きな常夜燈が鎮座していました。社殿は新幹線の線路の奥にあるようです。

小町塚と書かれた碑のある建物がありました。小町とは小野小町のことらしく、ここが生誕の地と伝わるそうです。

大堀橋で芹川 (せりがわ) を渡ります。釣り人がたくさんいました。

「中山道旧跡 床の山」と彫られた石碑がありました。左側面に句があり「ひるがおに 昼寝せうもの 床の山」とあります。この奥の公園の先にある山がそれなのでしょうか。

旭森公園に入ると祠があり、その脇に登山道がありました。

YAMAP に亀甲山の山頂マークがあり GPS を頼りにそこまで上ってみましたが、コンクリートの塊しか見当たりませんでした。そして3箇所も蚊に刺されました・・・。

南側に下ると石清水神社の立派な本殿がありました。この後ろに独立した拝殿の建物がありましたが、参拝をするのはそちらではなくこの本殿の門の前のようです。

拝殿の横を抜け、鳥居をくぐって参道を下りていきます。

扇塚と書かれた説明板と、その奥に石碑がありました。能楽喜多流の発祥の地らしく、門人たちが記念に建てたそうです。

参道を下りて脇道に到着しました。

石清水神社は飛鳥時代からこの地にお祀りしている神社だそうです。本殿の建築時代は不詳、拝殿は明治9年 (1876年) に改築されたそうです。

鳥居の反対側に道標らしきものがありました。

江戸時代には神社の前に「かどや」というお休み処があったそうです。井戸も当時からのもの。

街道に面して立つ唯稱寺は浄土真宗本願寺派のお寺で「ゆいしょうじ」と読むようです。立派な山門や鐘楼が印象的です。

高宮宿に到着。この建物は江戸時代の布問屋とのことで、この地で算出される高宮布について書かれた説明板がありました。現在は「おとくら」という喫茶店として営業中。

提灯屋さんがありました。その奥は酒屋さん。趣ある商店が連なります。

多賀大社のとても大きな鳥居がありました。参拝してみたいですが、ここから 3.5km 先にあるようです。

「俳聖芭蕉翁旧跡 紙子塚」の石碑。説明板によると松尾芭蕉がここに宿泊した際に「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」との句を詠んだとのことです。紙子とは紙で作った衣服のことだそうです。

脇本陣跡と書かれた説明板がありました。2軒あった脇本陣のうちの1つとのことです。

高宮宿の本陣跡に到着しました。表門は当時のものが現存しているそうです。

高宮宿 (64/69) ▶︎ 愛知川宿 (65/69)

無賃橋で犬上川を渡ります。「むちんばし」と彫られた大きな石碑が建っていました。江戸時代は通行料を取る橋や渡しが多かったため、無賃の橋は珍しかったのかもしれません。

犬上川の上流方面。遠くに鈴鹿山脈が見えます。

渡り終えた先にも「むちんばし」の石碑がありました。

江戸から120里 (約471.3km) の法士一里塚跡に到着しました。残念ながら石碑は破損しています。「??十三年建立」とあり、ピカピカ具合から察するに平成23年 (2011年) でしょうか。なお、葛籠一里塚と称する文献もあります。

交差点の角の空き地なので、内輪差に巻き込まれてしまったのかもしれません。

美しい松並木が近づいてきました。

蒸し暑いので並木が作ってくれる木陰がとても嬉しいです。

松並木の先に広がる田園風景と鈴鹿山脈。

松並木が先まで続いています。

葛籠町自治会作成のつづらマップ。お寺から新幹線まで色々盛り込んであります。

「また おいでや」モニュメント。摺針峠を下りたところにあったものと同じデザインです。ここから彦根市を抜け、豊郷町に入っていきます。ちなみに反対側は「おいでやす 彦根市」になっていました。

歩いてきた道をふりかえったところ。まもなく松並木はおしまいです。

街道から東へ春日神社の参道が伸びていました。大きな灯籠が印象的です。

美しい建物が見えてきました。豊郷小学校の旧校舎を利用した町立図書館のようです。

なんと、豊郷小学校の旧校舎は見学できるそうです。早速向かってみます。

美しい校舎が現れました。

昇降口も車寄せスタイルでかっこいいです。

スリッパを履いて中に入ってみました。右手が図書館のようです。

階段で2階に上ってみます。

踊り場の様子。亀が上っていてかわいいです。

かけっこしたくなるような一直線の廊下 (走ってはいけません)。

教室の中をのぞいてみました。机と椅子は真新しいです。

光が差し込んで美しく輝く廊下。おもわずたくさん写真を撮ってしまいます。

ステージがありました。

コスプレもできる!?

お紅茶ですわ。

屋上には出られないようですが、美しい山並みを一望できました。

迷惑にならない範囲で写真撮影なども許可されているようです。

こちらは現役の豊郷小学校の校舎。校庭もとても大きいです。うらやましい。

なんともレトロな電話機がありました。

とても楽しく見学ができました。

街道ウォーキングに戻ります。

一里塚の郷と書かれた看板がありました。寄ってみます。

江戸から121里 (約475.2km) の石畑一里塚跡に到着しました。

一里塚を再現したようなモニュメントと説明板がありました。この地には立場茶屋が設けられ間の宿として賑わったそうです。

伊藤長兵衛家屋敷跡と彫られた大きな石碑がありました。9代目伊藤長兵衛は伊藤長兵衛商店を発展させ、伊藤忠商店と合併して株式会社丸紅商店を設立、初代社長に就いたお方とのことです。日本を代表する総合商社のルーツは近江商人だったのですね。

玉屋といううどん屋さん。閉まっていましたが、女子バンド漫画・アニメの「けいおん!」のポスターがたくさん貼ってありました。

こちらは文具屋さん。こちらのお店にも「けいおん!」のポスターがずらり。ぬいぐるみやギターまで飾られています。

これも「けいおん!」のキャラクター?後で会社の後輩が教えてくれたのですが、先ほどの豊郷小学校旧校舎はこの作品のモデル地として有名だそうです。なるほど!

又十屋敷と書かれた看板の下に中山道一里塚址と書かれた石碑がありました。一里塚跡なら先刻通ってきたところで、ここにあるのは不思議です。ここは豊会館という民芸館の前で、何らかの理由で移設し展示されている可能性があります。

豊会館には様々な美術品・工芸品等が展示されているようですが、残念ながら閉館中でした。

歌詰橋で宇曽川を渡ります。大きな説明板が設置されていました。もともと「運槽川」だったものが「うそ川」と呼ばれるようになり「宇曽川」となったそうです。歌詰橋の由来は、切ったはずの将軍の首が目を開いて追いかけてきたので歌を詠んでこの橋で沈めたからだとか。

歌に詰まったという将門伝説の場所というのは、歌詰橋の由来のことですね。

愛知川 (えちがわ) 宿に到着しました。大きなゲートがお出迎え。

交差点の角にある泉町史跡公園に木曽海道六十九次の「恵智川」が飾られていました。

「むちんばし」「はし銭いらず」と書かれた標柱と長い橋が描かれています。この「むちんばし」は高宮宿を出たところにあったものではなく、愛知川に架かっていた橋を指しているようです。

「むちんばし」の由来を解説しているボードが端っこにありました。現在愛知川に架かっている御幸橋にかつてあった橋を指していることがわかりました。御幸橋の名前は、明治11年 (1878年) の明治天皇巡幸を記念してつけられたそうです。

江戸時代の無賃橋を描いたもの。とても長い木橋であったことがわかります。

本陣跡と書かれた標識を見つけました。

愛知川ふれあい本陣と書かれた美しい建物がありました。ここは本陣の跡地で、建物は戦前に存在した近江銀行の愛知川支店のものだそうです。

街道から北側に八幡神社の参道が伸びていました。

道幅が狭くなってきました。

竹平楼という料亭の入り口の脇に明治天皇御聖蹟と彫られた石碑がありました。巡幸の際にこの料亭に立ち寄られお休みになられたとのことです。

再び愛知川宿のゲートがありました。ここで R8 を跨ぎます。

愛知川宿 (65/69) ▶︎ 武佐宿 (66/69)

江戸から122里 (約479.1km) の愛知川一里塚跡に到着しました。石碑が残されていました。

本日花火大会!なぜか看板に Twitter のアイコンのシールが貼られていました。

祇園神社に到着、お祭りの準備で賑わっていました。

かつての無賃橋である御幸橋で愛知川を渡ります。北側を走る近江鉄道の電車が橋梁を通過していきました。

脇道に入って少し進んだところに立派な建物がありました。杉玉がぶら下がっているので造り酒屋さんのようです。

ここは中澤酒造といい、一度休業したあと復活して「一博」という酒を造っているそうです。

斜め45度に右折します。大きな灯籠が建っていました。

このあたりは五箇荘といい、近江鉄道の五箇荘駅も近くにあります。中山道分間延絵図が大きく展示されていました。

三俣鋳物師と書かれた説明板がありました。江戸時代に大型の釣鐘を造る技術をもった鋳物師がいたそうです。

こちらは旧五箇荘郵便局の建物だそうです。とても立派な洋館ですね。

明治天皇北町屋御小休所と彫られた石碑がありました。巡幸の際にこの地で休憩されたそうです。

江戸から123里 (約483.1km) の石塚一里塚跡に到着しました。石碑のほか説明板も設置されていました。

当時は榎が植えられていたことなどが記されています。

陽が落ちてきました。宿を取った武佐宿へ急ぎます。

国道から脇道へ入るところに道標がありました。東老蘇と彫られています。

「中山道 大蓮寺橋」「内野道 左十三仏 右観音正寺」と彫られた真新しい道標がありました。内野はここより少し南に行ったところにある地名のようです。

東光寺は浄土宗のお寺。改装されたのか至る所がピカピカです。

「中山道 西生来 どうぞ ごゆっくり」と書かれた看板がありました。すみません、日没間近なのでちょっと急いでいます・・・。

江戸から124里 (約487.0km) の西生来 (にししょうらい) 一里塚跡に到着しました。新し目な石碑が置かれていました。

武佐宿大門跡と書かれた看板がありました。武佐 (むさ) 宿に着いたようです。

明治天皇御聖蹟と彫られた石碑がありました。この奥にお寺があるので、そこでお休みになられたのでしょうか。

武佐宿の脇本陣跡は町会館になっていました。大きな冠木門が置かれていました。

R421 との交差点の角に灯籠と説明板が置かれた小さな公園がありました。

交差点の先に武佐宿の本陣跡がありました。表門は当時のものが現存しているようです。

道標らしき石碑がありました。「いせ みな口 ひの 八日市 左」でしょうか。「みな口」は東海道の水口宿のあるところで、日野はその北東にある地名、八日市はここより東にある地名を指しているようです。どれも近江鉄道の駅があります。ここで街道を離れ、予約したホテルに向かうため右折しました。

予約していた「ビジネスホテルシェル」に投宿しました。

目当てにしていたレストランが完全予約制だったので冷凍食品を購入してなんとかご飯にありつきました。あまりの空腹だったのでパスタ2食分を1人で食べました。

続き中山道六十九次 (15/16) 武佐→大津