中山道六十九次 (13/16) 美江寺→醒井

東京の日本橋から旧中山道経由で京都の三条大橋を目指すウォーキングの13日目です。全行程のリンクと注意事項、アドバイスなどはこちらをご覧ください

概要

記録

美江寺駅 ▶︎ 美江寺宿 (55/69)

大垣から樽見鉄道の始発列車に乗って美江寺駅に戻ってきました。

街道の道筋に復帰、ここから美江寺宿内へと入っていきます。

江戸から108里 (約424.1km) の美江寺一里塚跡に到着しました。標柱が置かれているのみでした。

自然居士之墓と書かれた標柱がありましたが、墓自体は少し奥まったところにあるようです。自然居士 (じねんこじ) は説教師だそうです。

美江神社に到着したところ、境内の前に高札場跡の案内板がありました。

美江神社の社殿にて道中の無事を祈願しました。

案内板にあった通り、復元された高札がありました。

境内には中山道美江寺宿跡と彫られた大きな石碑もありました。

美江寺宿本陣跡の石碑がありました。現在は民家になっています。

開蒙学校跡と彫られた石碑がありました。

街道の道筋が直角に曲がる地点に道標がありました。大正10年 (1921年) 製の道標で、彫られている文字は「左 大垣墨俣二至ル」「右 大垣赤坂ニ至ル」でしょうか。墨俣は長良川の少し下流側にある地名のようです。

再び案内図がありました。図中左から右へと進んでいるところです。

ぐねぐねとした風情ある道を進みます。

「中山道美江寺宿 THEN & NOW フォトスポット」と書かれた案内板がありました。広重の絵の舞台のようです。奥の建物は観音堂のようです。

美江寺宿 (55/69) ▶︎ 赤坂宿 (56/69)

街道らしい景色の中を進んでいきます。

左手を流れる犀川 (さいがわ) は墨俣で木曽川に合流する支流です。

田んぼを斜めに貫通する道が中山道とのことで、辿っていきます。

「皇女和宮ゆかりの小簾紅園」と書かれた案内板がありました。揖斐川を渡った先にあるようです。

いったん道路をくぐる直前で東側に 80m ほど進み、そこで道路をくぐって振り返ると橋に通じる道路にアクセスできました。

鷺田橋で揖斐川を渡ります。かつては呂久の渡しで結ばれていました。

鷺田橋から下流方面。遠くに今朝乗ってきた樽見鉄道の緑色のトラス橋が見えます。

鷺田橋から上流方面。奥に見える白い建物は焼却炉のようです。

立派な長屋門があり、その手前には明治天皇小休所跡の石碑が立っていました。

明治天皇小休所跡の石碑は大事そうに柵に囲まれていました。中山道の道筋はここを目印に左折します。

揖斐川を渡る手前に案内板があった小簾紅園 (おずこうえん) に到着しました。地蔵堂がありました。 

小簾紅園の説明板がありました。和宮遺跡とも書かれています。揖斐川を渡る際に和宮が見つけたもみじにちなんで名付けられた庭園とのことです。

美しく手入れされた庭園の様子。たくさんのもみじが植えられています。紅葉シーズンは名所として大変賑わうそうです。

左手に和宮の歌碑、右手に秩父宮妃殿下御手植と彫られた石碑がありました。昭和51年 (1976年) に御来臨されたそうです。 

庭園の奥には池もあり錦鯉が泳いでいました。

池はぐるっと一周することができます。

馬淵観雲という地元の詩人の詩碑がありました。

そろそろ街道に戻ります。

「呂久の渡し 呂久渡船場跡」と書かれた案内板がありました。大正14年 (1925年) の揖斐川の流路変更前は、ここから揖斐川 (呂久川) を渡っていたそうです。

新橋で平野井川を渡ります。この川を境に大垣市に入っていきます。

「左 木曽路」「右 すのまた宿道」でしょうか。中山道と墨俣方面の道の道標のようです。

江戸から109里 (約428.1km) の柳瀬一里塚跡に到着しました。平野井川の南側を歩いてきましたが、この一里塚跡は北側にあり、かつて流路変更があったのかもしれません。奥は神明神社の境内になっています。

説明板の "現" 平野井川という表現から、流路変更を示唆しているような感じがします。

中仙道三回り半と彫られた石碑。この先3つの曲がり角と1つの小さな曲がり角があるという意味のようです。

短大通りという道を横切った直後に右折、並行する脇道を通り抜けていきます。

養老鉄道の踏切を渡ります。すぐ北側に東赤坂駅がありました。

白山神社に参拝して一休み。境内は所々新しくなっています。

江戸から110里 (約432km) の枝郷一里塚跡に到着しました。とても新しい石碑と案内板が置かれていました。塚はここから西に 30m 先にあったそうですが、痕跡はありません。

新し目な灯籠がありました。左側面は「左 なかせんどう」。

右側面は「右 おおがきみち」でした。

補給のためドラッグストアに寄り道。

赤坂宿に到着しました。大きな火の見櫓がありました。

赤坂港会館という建物がありました。川を使った水運の港があったようです。

赤坂港跡にて。昨日の疲れが足にだいぶ残っているのでここで眺めの休憩を取りました。

広重の木曽海道六拾九次の赤坂の図。ここ赤坂港を描いていたようです。

貨物線の線路がありました。

貨物線は西濃鉄道株式会社が運営しています。ちなみに西濃運輸とは関係がないそうです。

この貨物線では石灰石の運搬列車が運行されているそうです。

赤坂本町駅跡と彫られた石碑と、奥にプラットフォームらしき構造物が見えました。戦前はこの貨物線に旅客列車も運行されていたそうです。

中山道赤坂宿本陣跡と彫られた石碑と、奥に和宮之碑と彫られた石碑がありました。

旧清水家住宅は商家だったそうで、この建物は1700年代に建てられたそうです。開館中だったので中にお邪魔してみました。

中はいくつかの部屋が用意されていました。床板や扉等は作り直されたようですが、梁などは年代を感じさせます。

中山道ルートマップがありました。その横には赤坂宿の説明が記された石板がありました。ここ四ッ辻から北には谷汲巡礼街道が、南には養老街道が伸びており、交通の要衝でもあったことがわかります。

四ッ辻を進み振り返ったところ。趣深い民家が立ち並んでいます。

赤坂宿の脇本陣跡の石碑と説明板がありました。榎屋旅館の看板が掛かっていますが、現在は営業を終了している模様です。

赤坂宿御使者場跡と彫られた石碑と、兜塚と書かれた説明いたがありました。関ヶ原の戦いに東軍として参戦した中村一英の家老で、杭瀬川の戦いで戦死した野一色頼母 (助義) が鎧兜とともに葬られたと伝えられているそうです。

赤坂宿 (56/69) ▶︎ 垂井宿 (57/69)

石灰石の工場がありました。貨物線の線路も昔はここまで伸びていたそうです。

とても大きな古墳が見えてきました。少し寄り道して見に行ってみます。

昼飯大塚古墳に到着しました。前方後円墳で、手前が「方」で左奥が「円」になっています。岐阜県内で最大の前方後円墳で、国指定の史跡に登録されています。埴輪や石室などが見つかっているそうです。

ここからは見えませんが、案内図によると奥には復元ゾーンがあり、葺石などが復元されているようです。

「中山道 青墓宿」と書かれた標柱がありました。青墓宿 (あおはかのしゅく) は古代・中世の東山道の宿駅で、このあたりにあったようです。江戸時代にはすでに宿駅はなくなっていたようで、中山道の宿場は置かれませんでした。

江戸から111里 (約435.9km) の蒼野ヶ原一里塚跡に到着しました。青墓一里塚跡とも呼ばれています。大きな常夜燈と石碑がありました。

キャプテン翼スタジアム垂井と名付けられたサッカー・フットサルのコートがありました。街道からとても目立ちます。

垂井追分に到着しました。中山道と美濃路の分岐点です。美濃路はここと東海道の宮宿 (熱田) を結んでおり、東海道の七里の渡 (海路) を避けられることから東海道 + 美濃路 + 中山道というルートで東西を行き来する人も多くいたそうです。

相川橋で相川を渡ります。

相川の人足渡跡と書かれた説明板がありました。暴れ川であることから橋がかけられず人力で渡るのが主だったそうですが、さすがに朝鮮通信使や姫宮などの特別な通行時には木橋がかけられたそうです。

垂井宿の東の見附跡に到着しました。ここから垂井宿内ということになります。

「旅籠 亀丸屋」という看板の掛かった建物がありました。営業はもうしていないようです。

「旅籠 亀丸屋」と書かれた説明板がありました。安永6年 (1777年) に建てられたそうです。

南宮大社の大きな鳥居が街道から南に伸びていました。この鳥居は江戸時代前期の寛永19年 (1642年) の作りで国指定の重要文化財だそうです。南宮大社自体はここから1km以上先にあります。

歩いてきた道を振り返ったところ。右手にある絵がたくさん飾られた建物は「ふれあいプラザ夢の屋」というカフェで、バス停の名前も「夢の屋」となっていました。

小林家住宅主屋がありました。こちらも国登録有形文化財とのことです。

幕末に造られた油屋で、明治から昭和初期までは旅籠屋だったそうです。

本龍寺の前に明治天皇垂井御小休所の石碑がありました。その奥にある大きな山門は脇本陣の門だったものを移築したと伝わっています。また右奥には復元された高札場がありました。

垂井宿の西の見附跡に到着しました。ここまでが垂井宿内ということになります。ここから関ヶ原へと歩を進めていきます。

垂井宿 (57/69) ▶︎ 関ヶ原宿 (58/69)

街道から松島稲荷神社の長い参道が伸びていました。たくさんの朱色の鳥居が並んでいて壮観です。

東海道本線の線路が近づいてきたところで垂井一里塚の案内板が立っていました。

出屋敷踏切で東海道本線とクロスします。ここ以前には加納宿の前後で旧中山道と2度クロスしていたようですが、高架橋の下をくぐったのであまり存在を認知できていませんでした。こうして踏切として出会うと、東京駅から伸びてきた線路がここまで・・・としみじみ感じられるような気がします。

渡っている最中に踏切が鳴り、貨物列車が通り過ぎていきました。

江戸から112里 (約439.9km) の垂井一里塚に到着しました。南塚が現存し、国の史跡に指定されています。同じく国指定の史跡となっている中山道の一里塚は、板橋の志村一里塚とここだけとのことです。説明板には、関ヶ原の戦いで東軍の浅野幸長がこのあたりに陣を構えたことも紹介されていました。ここからいよいよ関ヶ原越えに差し掛かります。

野上七つ井戸と書かれた説明板と、修復・再現されたという井戸が展示されていました。ここ野上は垂井宿と関ヶ原宿の間を補完する間の宿として栄えたそうです。この井戸はつるべ式で実際に水を汲めるそうですが、飲料用ではないとのことです。

美しい松並木「野上の松並木」が見えてきました。と同時にゆるい坂道が続きます。

静かな松並木の中を進んでいきます。時折進行方向左手から新幹線が通過していく音が聞こえてきます。

休憩所に到着、東海道新幹線の姿も捉えました。

旧中山道松並木と書かれた説明板がありました。この松並木は江戸時代から残るもので、虫害や台風などの被害で松が減少する中、保護活動が続けられているそうです。

この松並木を抜けた先に関ヶ原宿の中心街があるはずです。

と、その前に寄り道。関ヶ原の戦いの徳川家康の最初陣地「桃配山 (ももくばりやま)」跡です。

ひっきりなしに観光客が訪れており、その中に混ざりながら山を上ります。

陣地からの眺め。開戦地や決戦地を含む古戦場一帯を視界に捉えられる場所だったことがわかります。

立派な石碑も建っていました。

葵紋ののぼりが印象的です。

最初陣地の説明板。開戦は午前8時、家康が序盤の劣勢に焦りここ最初陣地を捨てて敵陣まで進軍したのが午前11時だったと伝わるそうです。

たっぷり堪能したのでそろそろ私も進軍することにします。

国道に合流した後もじりじりと標高を上げ、関ヶ原宿の本陣があったとされる地に鎮座する八幡神社にやってきました。

関ヶ原本陣跡スダジイと書かれた説明板と、極太の巨木。ここは本陣の庭の一角だったそうです。

八幡神社でこの先の峠越えの無事を祈願しました。

関ヶ原宿 (58/69) ▶︎ 今須峠

街道脇に首塚がありました。関ヶ原の戦いで戦死した兵士たちが埋葬された地だそうです。ここは西首塚で、東首塚は関ヶ原駅の脇にあるようです。

松尾交差点で国道から脇道へと進んでいきます。入口に「これより中山道関ヶ原宿松尾」と書かれた標柱がありました。

「美濃不破関 (ふわのせき) 東山道と東城門跡」と書かれた説明板がありました。夜間は閉じられる城門があったそうです。

不破関跡に到着しました。説明板には、古代律令制下の関跡で多くの文学作品等にその名が登場する場所であったと紹介されていました。

不破関守址と書かれた標柱を過ぎると、川を跨ぐために久々の下り坂です。南北を山地に囲まれ、すぐ西を川が流れ、その先は峠。まさに関所を置くにふさわしい地形でしょう。

川に向かわず右手に伸びる道を進むと不破関資料館があるようです。左旧中仙道と彫られた道標もありました。

不破関西城門と富古川と書かれた説明板がありました。この先の川が関の西限とされ、城門があったと推定されている地だそうです。川面との間には高低差があり、かつ伊吹と養老・南宮山系に挟まれた狭隘な地であることを利用していたことが解説されています。

橋で富古川を渡ります。関の藤川とも呼ばれているそうです。壬申の乱 (672年) では両軍が激突した場所であり、関ヶ原の戦いでは西軍として参戦した大谷吉継の陣地があった辺りとのことです。

大谷吉継陣と墓所は、街道から北に伸びるこの階段の先にあるようです。若宮八幡神社の参道になっており、大きな鳥居がありました。その奥には東海道本線の踏切があり、ちょうど電車が横切っていきました。

間の宿山中と書かれた大きなモニュメントと、高札場跡と書かれた説明板がありました。休憩施設の立場茶屋があったそうです。

黒血川と書かれた説明板がありました。なんとも物騒な名前ですが案の定戦に由来しており、壬申の乱 (672年) で兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたと伝わるそうです。

鶯の滝と書かれた説明板がありました。旅人の癒しの地として街道の名所だったそうです。

常盤地蔵という名の小さな地蔵堂と説明板がありました。常盤とは常盤御前のことで、(息子の) 義経がこの道を通って上洛する際には道端から見守ってやりたいと宿の主人に伝えて息を引き取ったことを村民が哀れみ作られた地蔵とのことです。その後、実際に義経が通りかかった際にはこの地蔵前にも立ち寄り、しばしひざまずき冥福を祈ったそうです。

民家もなくなり、いよいよ峠のピークに到達です。

今須峠に到着しました。従是東不破郡山中村と彫られた標柱と、峠について記された説明板がありました。ここから京方に200m行くと一里塚があり、その先が今須宿となるようです。

今須峠 ▶︎ 今須宿 (59/69)

江戸から114里 (約447.7km) の今須一里塚跡に到着しました。オリジナルの塚は道路整備で消失してしまい、こちらは場所を移して復元されたものだそうです。

石碑も添えられていました。ここから今須宿内へと入っていきます。

倉庫のシャッターに広重の木曽海道六十九次の今須宿がペイントされていました。江濃両国境と書かれた標柱も描かれています。ここが近江国と美濃国の国境の地でもあったことがわかります。なお、滋賀県と岐阜県の県境はここより少し西の宿場を抜けた先にあるようです。

今須宿の本陣があったとされる地にやってきました。案内板や標柱など色々設置されています。妙応寺の門前町としても栄えたそうですが、そのお寺は線路の奥にあるようです。関ヶ原の戦いで勝利した家康は、その翌日にこの地で休息され、石田三成の居城である佐和山城へと向かったそうです。

歴史のありそうな立派な門と建物があり、説明板が立っているのも見えました。

この建物は問屋場で、当時の姿を保って現存している貴重な建物だそうです。

常夜燈がありました。大名の荷物を紛失してしまった問屋の人が、金比羅様にお祈りをした後に荷物が出てきたことのお礼に建てたと伝わるそうです。

今須宿 (59/69) ▶︎ 柏原宿 (60/69)

車返しの坂と書かれた説明板、そして奥に石碑が立っていました。南北朝の頃、荒れ果てた不破関屋の屋根から漏れる月の光が面白いと聞きわざわざ都から牛舎に乗ってやってきた酔狂な公家のお方が、ここで屋根が直されたと聞いて引き返していったという伝説から付けられたそうです。

岐阜県と滋賀県の県境に到着しました。近江美濃両国国境寝物語と書かれたモニュメントが設置されていました。かつては国境を挟んで旅籠が並んでおり、寝ながら他国の人と語り合えた地だったそうです。

近江国に入り、柏原宿へと歩を進めます。楓並木の木陰が気持ち良いです。

中山道の大きな石碑が置かれていました。まもなく柏原宿。この石碑の左手には長比城跡登り口がありました。なお、このあたりは伊勢湾に注ぐ木曽川水系と琵琶湖・大阪湾に注ぐ淀川水系の境界となる分水嶺でもあるそうです。

旧東山道と書かれた道標がありました。国境からこのあたりまでは中世の道である旧東山道の古道上に中山道が敷設されたものの、中山道はこのあたりで分岐し今須宿へと分かれていったとのことです。古道はぜひ歩いてみたいものですが、地理院地図でも道筋が確認できなかったのと、今は柏原宿に行かなければいけないので歩くのは諦めました。

野瀬踏切で東海道本線を渡ります。ちょうど米原方面から列車がやってきました。

柏原宿に到着しました。中山道分間延絵図のうち柏原宿内の東側を抜き出したものが展示されていました。

柏原宿の歴史が書かれた説明板がありました。皇女和宮が本陣に宿泊されたことなどが記されています。

東見附跡と書かれた建物を見つけました。ここが江戸方の入口の警備拠点ということになります。

江戸時代の賑わいを想像しながら宿内を歩きます。

歴史のありそうな建物が増えてきました。

問屋場跡と書かれた説明板がありました。江戸後期には宿内に東西3軒づつの計6軒の問屋があったそうです。

旅籠屋跡と書かれた説明板がありました。今は民家のようですが、「旅籠屋 京丸屋五兵衛」と書かれた看板が飾られていました。

ここは映画監督の吉村公三郎の実家だそうです。

酒屋さんの入口に掲げられた「柏原宿本陣、南部家 風雅の道」と書かれた説明板。和歌がいくつか記されています。

酒屋さんの様子。このあたりが本陣だったのでしょうか。

酒屋さんの左隣には「皇女和宮宿泊 柏原宿本陣跡地」と彫られた石碑がありました。

柏原宿の本陣は、この家とその両隣を合わせた広さだったそうです。明治期には本陣跡地に学校が建設され、その建物も垂井の南宮神社に移設されたそうです。南宮神社といえば、垂井宿内の街道筋に大きな鳥居があったところですね。

小川を渡った先にも美しい街並みが広がっていました。

造り酒屋跡がありました。水資源に恵まれた酒造りに適した地だったそうです。

西の荷蔵跡と書かれた説明板がありました。物流拠点として重要な役割を担っていたことがわかります。

道端に道標が立っていました。正面は「従是明星山薬師道」、側面は「やくし江戸方」でしょうか。横に立つ説明板によると、最澄が創立したという明星山明星輪寺泉明院というお寺に至るものだそうですが、戦後は門前の村も消え往年の面影がないとも記されています。地図で確認すると、名神高速の伊吹PA (上り) の南方にそのお寺があるようです。

江戸から115里 (約451.6km) の柏原一里塚跡に到着しました。河川の改修により塚は消失したものの、位置を変えて復元したものがありました。木も植えられとても美しい姿です。

石碑も立っていました。

西見附跡に到着しました。ここが柏原宿の西端ということになります。東見附からは1.4kmもあり、長い宿場であることがわかります。また標高は174mと、この先にある摺針峠よりも高い位置にあるそうです。

東の入口にもあった石碑がこちらにもありました。こちらの中山道分間延絵図は柏原宿の西側を抜き出したものになっていました。

柏原宿 (60/69) ▶︎ 醒井宿 (61/69)

昨日47km歩いた疲れに今日歩いた分の疲れも重なってだいぶ響いてきましたが、まだ陽もあるので次の醒井宿をゴールにすることに決定、もう少し歩くことにしました。

街道並び松と書かれたモニュメントと、掃除丁場と並び松と書かれた説明板がありました。貴人の通行に備えて街道の補修や清掃などを担当する仕事があり、掃除丁場はその対象区域を意味しているそうです。並び松は松並木の呼び名とのことです。

「柏原宿枝郷 長沢」と書かれた道標がありました。右が旧中山道、左が中山道ということで、迷わず右の未舗装路へ進みます。道標の奥に立つ石碑は小川関跡とあり、かつてこの地に関屋があったそうです。

防獣フェンスのゲートがありました。しっかり閉めてから先へと進みます。

久々の草道が気持ち良いです。

美しい杉林の中を進みます。

「旗本西郷氏領 梓河内村 (東地先)」と書かれた石碑がありました。調べると梓河内は「あんさかわち」と読むようです。

中山道の大きな石碑がありました。「東山道横河駅跡 梓」と書かれています。先ほどの梓河内の梓ですね。

「推定横川 (よかわ) の駅家跡」と書かれた説明板がありました。中世の東山道とその横川駅の推定地について書かれています。

ラブホ街を抜け、名神高速の脇に出ました。パンジーの花がたくさん咲いていました。

米原 IC の英語表記が Maihara になっています。市の名前や駅名などは「まいばら」ですが、旧町名は「まいはら」だったそうで、IC 名はそちらを採用していたとのことです。

大きな中山道の石碑がありました。旧中山道の道筋はここから脇道に入っていきます。

江戸から116里 (約455.6km) の一色一里塚跡に到着しました。植木と石碑が並んでいました。

高速の土手沿いの金網に鶯ヶ端と書かれた説明板がありました。かつては西方の眺めがよく、はるか山間に京都の空が望めたそうです。

見附跡、枡形と書かれた説明板がありました。ここは江戸方の東見附跡だったそうです。付近には直角に2度曲がる道路である枡形が残っていました。

醒井宿に到着、中山道分間延絵図が再び登場しました。

醒井宿内は水路が並行し美しい街並みになっていました。

「本陣 樋口山」という看板を見かけました。ここが本陣跡でしょうか。

お寺の参道の道標があるこの交差点で旧中山道を離脱、醒ヶ井駅で終了することにしました。

無事、醒ヶ井駅に到着。2日間で85km以上歩く徒歩旅もこれにて終了。

電車で米原駅に移動、米原の駅弁として有名な井筒屋の牛肉弁当はラスト1個を買えました。ごはん、甘めの味付けの牛肉、茎わかめ、ポテサラというシンプルな内容。新幹線を待つ間においしくいただきました。

続き中山道六十九次 (14/16) 醒井→武佐