中山道六十九次 (12/16) 伏見→美江寺

東京の日本橋から旧中山道経由で京都の三条大橋を目指すウォーキングの12日目です。全行程のリンクと注意事項、アドバイスなどはこちらをご覧ください

概要

  • 活動日: 2023年5月27日
  • 歩行距離: 47.0km
  • 獲得標高: 🔺306m 🔻400m
  • 出発: 06:02 明智駅
  • 到着: 18:33 美江寺駅
  • 合計時間: 12時間33分
  • 休憩時間: 1時間47分
  • ヤマップ活動記録https://yamap.com/activities/24600541 (1日目)

記録

明智駅 ▶︎ 伏見宿 (50/69)

可児のホテルに前泊し、名鉄広見線の始発電車で3週間ぶりに明智駅に戻ってきました。

明智駅前の様子。ジオラマで再現したくなるような味わい深い情景です。

平具戸橋で可児川を渡って可児市から御嵩町に移動します。

とても穏やかな朝の可児川の様子。

街道の近くにある浄覚寺は浄土真宗大谷派のお寺です。徳川光友公夫妻菩提所と書かれた石碑もありました。徳川光友は尾張藩の2代目の藩主です。

旧中山道の道筋に戻ってきました。ここを左手に曲がって街道歩き再開です。

一本松公園に伏見宿の案内板が設置されていました。

街道沿いに立つ松屋山田家住宅は明治初期の作りで、国登録の有形文化財も指定されています。

伏見宿 (50/69) ▶︎ 太田宿 (51/69)

ふと案内標識に目をやると丸山ダムまで 13km の案内がありました。新丸山ダムになる前に一度目にしておきたいものです。

街道脇に上恵土神社があったので立ち寄りました。

鳥居から少し入ったところに社殿がありました。扉に空いた小さな穴から賽銭を投げ込み、道中の無事を祈願しました。

江戸から97里 (約380.9km) の恵土一里塚跡に到着しました。真新しい石碑が置かれていました。

裏面をチェックすると、中山道開宿400周年記念事業とありました。2002年ごろでしょうか。

中仙道踏切で太多線を跨ぎます。太多線は美濃太田と多治見を結ぶ路線です (田と治見で太多線)。

レトロなタイプの郵便ポストがありました。この後ろには令和さくら高等学院という通信制高校がありました。

街道から今渡神社の鳥居があり、ここから社殿まで 200m 一直線の参道が伸びていました。今渡 (いまわたり) は木曽川の渡に由来する地名のようです。

太田橋に到着しました。車道と歩道で別々のトラスが架けられています。橋を渡る前に右手前にある公園を寄ってみます。

道標スタイルの石碑がありました。

今渡の渡し場跡と彫られた石碑がありました。「木曽のかけはし 太田の渡し 碓氷峠がなくばよい」とうたわれた中山道三大難所の一つ、とも紹介されています。

過去と現在の渡場の変遷や橋の配置などが記された石碑もありました。天明以前はここよりも下流に渡があったことがわかります。

太田橋で木曽川を渡ります。写真は上流方向。奥に国道248号の新太田橋と今渡ダムが見えます。今渡ダムは水力発電用のダムで、木曽川に設置されたものとしては最下流のものになります。

いったん上流側の中之島公園に立ち寄りました。木曽川を詠んだ歌碑が鎮座していました。

渡ってきた太田橋を川岸から見渡してみました。とても長いトラス橋になっています。

水神碑がありました。

橋の下を潜ったところに太田の渡しの案内板がありました。石畳は当時のものだそうです。

広重が描いた太田の渡しの図。

少々かすれかけの説明板がありました。渡船場への石畳が地下に眠っているそうです。

木曽川の土手の上を歩いていると、不思議なオブジェがありました。水辺にちなんだ彫刻作品ということのようです。

もう一つの作品は右奥にありました。

江戸から98里 (約384.9km) の古井一里塚跡に到着しました。一里塚跡と書かれた標柱のみのようでした。なお、天明期に渡場が移動する前は左岸側に土田の一里塚跡があったようで、そちらには石碑が置かれているそうです。

岡本一平終焉の地と書かれた石碑がありました。後で調べてみると、漫画家・作詞家として活躍された方だそうです。

太田宿内に入っていきます。

土手から神明堂交差点を経由し宿内へと歩いてきたのですが、ここでの案内はここで土手から宿内となっていました。道筋をちょっと間違えたかも・・・?

神明水神公園にて、ツツジが美しく咲いていました。

法華経塚と飛騨街道追分と書かれた案内板がありました。その左手に大きな石碑があります。案内板をによると、神明堂交差点が高山方面へ至る飛騨街道と中山道との追分とのことです。つまり歩いてきた道筋は間違っていなかったようです。

新町木戸門跡と書かれた標柱がありました。

枡形にある祐泉寺の入口。美濃西国第二十七番札所だそうです。

枡形にある旧小松屋は元旅籠屋のようです。国指定の登録有形文化財になっています。

旧小松屋と上町の枡方と書かれた説明板がありました。弘化2年 (1845年) の絵図で今と変わらない鍵の字になっている枡方の様子が図示されていました。

太田宿渡しの広場に到着しました。船の形をしたベンチがいい感じです。

脇本陣跡の林家住宅に到着しました。国指定の重要文化財に登録されているそうです。大きなうだつが上がっています。

太田宿中山道会館は9時開館、現在は8時過ぎ。残念ながら見学できず。

太田宿の本陣門がありました。文久元年 (1861年) に皇女和宮の通行にあわせて新築したものが現存しているそうです。

高札場跡と郡上街道追分と書かれた案内板がありました。左手に道標があるということで目を向けると・・・。

割と大きな道標がありました。「左 西京伊勢道」「右 関上有知道」でしょうか。上有知 (こうずち) とは関の北側の美濃市美濃町のあたりを指す古い地名のようです。

太田宿 (51/69) ▶︎ うとう峠

太田宿を抜け、再び木曽川沿いに歩を進めます。

虚空蔵堂というお堂と、その手前に常夜灯がありました。

木曽川の土手を歩いていきます。

兼松嘯風 (かねまつしょうふう) という歌人の句碑がありました。江戸初期の歌人だそうです。

ベンチでひとやすみ。

江戸から99里 (388.8km) の取組一里塚跡に到着しました。勝山一里塚跡とも呼ばれているようです。

しばらく県道207号 (旧国道21号) を歩いていたのですが、再び土手に戻ってきました。写真は上流側を写したものです。このあたりは川幅が狭くなっていて崖が削れています。

行幸巌と書かれた大きな石碑がありました。昭和2年に昭和天皇がここで木曽川を鑑賞されたそうです。そのとき立たれたとされる大きな岩が川辺にあります。

木曽川のチャート層の中から隕石衝突の証拠も見つかったそうです。

土手に鎮座する小さな祠と石碑。ここは勝山湊跡を示しているそうです。

土手を離れ、草道に入っていきます。

草道は草刈りがなされ綺麗に整備されていました。

草道のすぐ隣に高山本線の線路があり、ちょうど列車が通過していきました。

視界が開け、木曽川を見下ろせる場所にきました。

川幅が狭まりなかなかの急流です。

巌屋坂之碑と書かれた大きな石碑がありました。

岩屋観音堂に到着しました。岩の崖にお堂が建っています。

落書きだらけの廃墟がありました。ムーンライトというフィリピンパブだったようです。

また廃墟。こちらはビューガーデンというドライブインだったようです。

またまた廃墟。カフェテラスゆらぎというドライブインだったようです。屋根がところどころ抜けています。

道路の反対側から急に大勢のハイキング客がやってきて「うとう峠」に至る峠道へ吸い込まれていきました。どうやら名鉄ハイキングの開催日とぶつかったようです。ハイキング客にまじって一緒に峠越えすることになりました。

旧国道と高山本線をトンネルで潜り抜けていきます。

ハイキングマップがありました。この峠道以外にもいくつか遊歩道が整備されているようです。

これまでずっと孤独に歩いていたのに急にたくさんの人と歩くことになってなんだか不思議な感じです。

じわじわと勾配を上がっていきます。

中山道うとう峠の標識がありました。

江戸から100里 (約392.7km) のうとう峠一里塚に到着しました。説明板によると、北塚は直径約10m、高さ2mと原形を保っているそうですが、南塚は太平洋戦争中に航空隊の兵舎建設によって半分が崩されたそうです。

草が生い茂っていてややわかりづらいですが、確かに土が盛られている様子が確認できます。

峠の頂上には日本ラインうぬまの森と彫られた石碑がありました。なお、道順が複数ありどちらが旧中山道の道筋なのかよく分からなかったので、一旦峠を下ってハイキング客が歩いていない脇道のほうも歩いてみることにしました。

こちらから左手の脇道に進んでいきます。

めいそうの道と書かれた看板。心と体をリラックスさせて歩きます。

写真左手前から上がってきて右手前へと進みます。中山道杉木立およびまんさくの道と書かれた看板がありました。

うとう峠 ▶︎ 鵜沼宿 (52/69)

峠のピークを抜けて鵜沼宿へと下っていきます。合戸池という大きな池がありました。

中山道鵜沼宿遠望と書かれた案内板がありました。ここから左へと下っていき90度右折し、宿内へと入っていきます。

案内板にあった伊吹山は残念ながら霞んでいて見えませんでした。

90度曲がる地点まで下りてきました。ここに東の見附跡があります。

東の見附跡と赤坂の地蔵堂とかかれた説明板がありました。左奥にお地蔵さんが鎮座していました。ここから西が鵜沼宿内ということになります。

高札場がありました。美しい姿で復元されています。

鵜沼宿の中心部にやってきました。電柱が地中化されて美しい街並みです。右手の建物は中山道鵜沼宿町屋館で、ハイキング客らに向けて見学できる旨案内がなされていました。私もお邪魔してみます。

中山道鵜沼宿町屋館は江戸時代に絹屋という旅籠屋だったそうです。当時のものも多数展示されています。右手の階段は箱階段といい、収納スペースも兼ねていて見た目も美しい特徴的な階段です。

中庭は美しい庭園になっていました。

中庭を望める落ち着いた離れがありました。昭和初期に太田宿から移築されたものだそうです。

風通しが良さそうです。

町屋の見学を終え街道に戻ってきました。門の前に旧武藤家住宅との看板が掲げられていました。

鵜沼宿本陣跡は現存していませんが、説明板が置かれていました。明治維新後に小学校が建てられ、その後住宅地になったようです。

脇本陣がありました。こちらも見学できるようなのでお邪魔してみます。

幕末期の脇本陣坂井家を復原したものだそうです。

中の様子。平成22年 (2010年) に公開されたもので、中はピカピカです。

甲冑などの展示物もありました。

かまど。

とても奥行きがあります。

雪隠 (せっちん)、トイレです。着物の裾をかけておく板がついており、板を後にして用を足していたそうです。

こちらは風呂桶のようです。

見学を終え、街道に戻ってきました。古い建物が並んでいて良い雰囲気です。

西の見附跡に到着しました。鵜沼宿はここでおしまいです。間の宿である新加納を経て加納宿方面へと歩を進めます。

鵜沼宿 (52/69) ▶︎ 新加納 間の宿 (52.5/69)

お寺の手前になんだか不自然な丘があるなと眺めながら歩いていると、奥に古墳の説明板がありました。

この古墳は衣裳塚古墳といい、円墳としては岐阜県内最大とのことです。

国道21号と合流したところにある Vancha (バンチャ) というインド料理屋さんでお昼ご飯にすることにしました。

カレー2種類に辛さ指定 Very hot で注文。とてもおいしかったです。

国道21号の 40km キロポスト。瑞浪からの距離を示しているようです。

高山本線を跨線橋で跨ぎます。写真は振り返ったところです。

高山本線の各務ヶ原駅は「かがみがはら」と読みますが、市の名前の各務原市は「かかみがはら」と読み、「ヶ」も付きません。

高山本線の各務ヶ原駅は無人駅で小ぢんまりとしています。特急も通過するようです。

各務原町 (かかみがはらちょう) 交差点。市町村の町名ではなく単なる交差点の名前です。

岐阜と言えば・・・岐阜タンメン?初耳です。

江戸から103里 (約404.5km) の六軒一里塚跡に到着しました。標柱が置かれています。

各務原市民公園に到着しました。とても大きな公園です。木陰で一休み。

各務原市民公園の入口の様子。

間の宿である新加納 (しんかのう) に到着しました。石碑が置かれていました。

江戸から104里 (約408.4km) の新加納一里塚跡に到着しました。石碑が置かれていました。

石碑と植木のセットがもう一つありました。

「中山道間の宿 新加納のご案内」と書かれた案内板がありました。枡方は現在の道筋にも残っています。

高札場跡にも石碑がありました。一里塚跡の近くにもカエルがありましたが、カエルがこのあたりのシンボルなのでしょうか。

立場跡に到着しました。皇女和宮も新加納で休憩されたそうです。

用水路を渡ったところにピカピカの石碑がありました。

新加納 間の宿 (52.5/69) ▶︎ 加納宿 (53/69)

街道上に大きな鳥居が立っていました。街道より南側にある手力雄神社の参道となっているようです。

「切通の由来」と書かれた説明板がありました。一帯の滞溜水を川に落とすために作った流路が由来だそうです。

江戸から105里 (約412.4km) の細畑の一里塚に到着しました。両塚現存している貴重な一里塚です。案内板のあるこちらは南塚。

反対側に北塚がありました。

南塚の全体を写してみました。風化の煽りか塚の高さはやや低いようですが、住宅地にありながら両塚現存しているのは貴重です。

名鉄名古屋本線の茶所駅を越え、加納宿へと進んでいきます。ここは御鮨街道 (岐阜街道・尾張街道) との交差点になっているようです。

和菓子屋さんの前に加納宿の看板がありました。看板に図示されている通り、ここで一旦北へと進路を変え、川を渡った先で再び西へと進路を戻します。

新荒田川を渡っているところで名鉄の特急列車が通過していきました。岐阜と名古屋を結ぶ大動脈で、ひっきりなしに電車が行き交います。

左折ポイントにしっかり道標が置かれていました。加納宿へは道が複雑に曲がっています。

中山道加納宿東番所跡と書かれた石碑がありました。ここが加納宿の江戸方の入口ということになります。

加納宿の案内図がありました。図中下から上へと歩いていきます。

道標がありました。説明板の通り、「左 中山道」「右 ぎふ道」と読めます。

加納大手町交差点に加納城大手門跡の石碑がありました。ここで右折した先が加納宿のメインストリートの始まりです。

中山道加納宿まちづくり交流センターという建物がありました。役場の跡地に令和2年 (2020年) に完成した施設でピカピカです。

道標がありました。その上の木の説明板はかすれていてはっきり読めません。

加納宿当分本陣跡と彫られた石碑がありました。当分本陣とは本陣でも脇本陣でもない第三の本陣といったところでしょうか。

本陣跡の石碑はとても分かりづらいところにあったようで見落としてしまいましたが、脇本陣跡はしっかり見つけられました。

加納宿 (53/69) ▶︎ 河渡宿 (54/69)

江戸から106里 (約416.3km) の三里一里塚はこのあたりにあったそうで、以前は説明板があったそうですが現在はなくなっています。代わりに少し街道を進んだところに石碑と説明板がありました。

三里一里塚跡の説明板と石碑は東海道本線の線路に近づいたところにありました。

途中から川と並行して歩いてきましたが、論田川というようです。改修記念碑がありました。

「中山道と鏡島の今昔」と書かれた案内板がありました。長良川の舟運の拠点と街道が重なり賑わったそうです。

長良川の土手に出るところで鏡島湊と書かれた案内板がありました。長良川の舟運の湊として秀吉の時代から栄えていたそうです。

河渡橋 (ごうどばし) で長良川を渡ります。東海道の場合は七里の渡し (佐屋街道経由の場合は三里の渡し) で木曽三川をまとめて超えてしまいますが、そのだいぶ北部をゆく中山道は1つ1つ超えていきます。 

河渡橋を渡り終えて振り返ったところ。現在の河渡橋は4代目で、1980年に開通しました。

だいぶ疲れてきたので川辺で一休み。陽も傾いてきました。

下流側の先に東海道本線の橋梁がみえました。ゴトゴトという音がここまで響いてきました。

江戸から107里 (約420.2km) の河渡宿一里塚跡に到着しました。石碑などが置かれていました。

松下神社の由緒が書かれた石板がありました。洪水に悩まされた地であることから時の代官が宿中を土盛りして家屋を改築した功績から建てられた神社だそうです。

河渡宿の様子。なんとなく街道の趣があります。

河渡宿 (54/69) ▶︎ 美江寺駅

馬場の地蔵尊堂を通過、写真左手に小さなお堂がありました。

高札場跡と書かれた説明板がありました。絵図と照らし合わせてこのあたりにあったとされているそうです。

樽見鉄道の線路と交差します。樽見鉄道は非電化ですが、踏切標識にはパンタグラフが・・・。

「左 北方谷汲二至ル」「右 岐阜加納二至ル」と彫られた道標がありました。樽見鉄道には谷汲口という駅があり、谷汲とはそのあたりの地名でしょうか。ここで中山道を離れ、美江寺駅で離脱することにしました。

美江寺駅は街道からすぐのところにあります。ホームは島式の形をしていますが、線路が敷かれているのは右手のみです。調べると、以前は左手にも線路があったものの撤去されたようです。

ホーム端からホームを眺めたところ。かつて線路があった左手に大きくスペースが空いています。

美江寺駅の駅名標と待合室。

樽見鉄道の列車がやってきました。この列車に乗って大垣駅に移動し、温泉に浸かったあとビジネスホテルで一泊しました。なお、この日歩いた距離は 47.0km で中山道の道中で1日に歩いた距離としては最長の日となりました。

続き中山道六十九次 (13/16) 美江寺→醒井