中山道六十九次 (11/16) 恵那→伏見

東京の日本橋から旧中山道経由で京都の三条大橋を目指すウォーキングの11日目です。全行程のリンクと注意事項、アドバイスなどはこちらをご覧ください

概要

記録

ホテルルートイン恵那 ▶︎ 十三峠

朝5時過ぎに出発。早速街道へ向かいます。

街道に復帰しました。このあたりは大井宿の西端部。趣ある建物が並んでいます。

上町観音堂と書かれた石碑。この先にあるようです。

中町の観音堂は街道の道端にありましたが、上町のものは少し外れたところにありました。

西行硯水 (さいぎょうすずりみず) 公園に到着。これから峠に入るので、ここで軽く装備を整えます。

西行硯水は鎌倉時代に西行法師がここで硯に水をいれ墨をすったと伝わる地とのこと。

「中山道 中野」と彫られた石碑。このあたりは中野という地名になっています。

「是より西 十三峠」の石碑。中山道はここから長い峠道です。

「中山道はここより御嶽宿まで約 30km 幹線道 鉄道を外れ山間を行きます。途中 食堂や商店 宿泊所などありません。十分な準備 下調べで 前へお進みください。」「Attention: There are no eating place, conveni and lodgings to 30km destination more than this.」

道中にある伝西行塚に寄り道。西行法師の墓と伝わるものの、西行法師の年代 (平安末期〜鎌倉時代) に対して五輪塔の様式が室町末期のもので、少なくとも塔自体は後年に建立されたと推定されているそうです。「"伝" 西行塚」と書かれているのもそのためでしょう。

五輪塔は一番下の四角い土台が地、その上の球体が水、その上の山の形をした部分が火、その上が風、頂点が空を示しているそうです。五大元素ですね。

伝西行塚の説明板。恵那市の市街地を一望できる... とあるように、この奥に展望台があります。

展望台からの眺め。恵那山がくっきり見えました。

展望台の風景説明板。木が育ってしまって市街地は見渡せませんでした。

松尾芭蕉句碑。「西行の わらじをかかれ 松の露」

「リコー恵那の森」入り口。精密機器を製造しているリコーエレメックスの恵那事業所の敷地で、環境保全活動の一環として森づくりに取り組んでいるそうです。ちなみに時計を製造するのは数年前に辞めてしまったようです。

リコー恵那の森の入り口付近の様子。私有地につき立入禁止。

江戸から88里 (約345.6km) の槙ヶ根一里塚に到着。両塚現存しているのは大変貴重です。こちらは北塚。立派な石碑もあります。

こちらは南塚。さすがに榎の木は残っていないようですが、見事なお姿です。

国道から分岐してきた舗装道路と交差、再び未舗装路へ。

茶屋松本屋跡と書かれた標柱がありましたが、特にそれらしき痕跡は見当たりませんでした。

伊勢神宮遥拝所と書かれた説明板。中山道と下街道の追分がこの先にあり、伊勢参りに行く人は下街道に向かいますが、都合で伊勢まで行けない人はここから遥拝 (ようはい) したとのことです。

槙が根立場の茶屋と書かれた説明板がありました。江戸時代末期にはここに9件もの茶屋が建っていたとのこと。

槙が根立場について解説している大きな説明板。上部の絵は「恵那郡中野村中山道家並絵図」の抜粋。ここは中山道から名古屋方面に向かう下街道が分岐する追分でもあり、中山道の通行人に加えて善光寺や伊勢神宮の参拝客、そして美濃や尾張の商人も加わりとても賑わう地だったそうです。

槇ヶ根追分道標に到着。「左 伊勢・名古屋 右 西京・大坂」と読めます。

下街道の説明板。下街道の名前の由来は、中山道を上街道と呼び、それに対する名前ということでした。中山道の宿場保護のため尾張藩は下街道の利用を厳しく制限したものの徹底することができなかったととも書かれています。そりゃあ需要があって目的地までの距離も近ければどうしても使ってしまいますよね。

姫御殿跡に到着しました。子持松と呼ばれる松かさが多くつく松の大木の枝越しに馬籠 (孫目) が見えるので、子と孫が続いて演技がよいと言われた場所とのことで、お姫様が通るときはここを好んで仮御殿を建ててよく休憩された場所とのことです。

文化元年 (1804年) の楽宮の下向、文久元年 (1861年) の和宮の下向の際にも朱塗りの仮御殿を建ててお休みになられたとか。まさに姫御殿。

現在では草木が伸びて眺望はちょっと微妙です。

「首なし地蔵跡」に到着。

左のお地蔵様の首がありません。

眠っていた二人組のうち一人が目覚めるともう一人の首が切られてしまった。犯人を探すも見つからず、怒って近くの地蔵の首を刀で落としてしまった。それ以来何人かが首をつけようとしたがどうしてもつかなかった・・・との言い伝えが残っているそうです。

小さな橋の向こうに説明板が。

「乱れ坂と乱れ橋」と書いてありました。今下ってきた坂が乱れ坂ということらしいです。急な坂なので大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女の人の裾も乱れるほどだったことから「乱れ坂」と呼ばれるようになったとか。

うつ木原坂と書かれた標柱。1つ1つの坂に名前がついているのが面白いですね。

開けてきました。のどかな風景。

竹折高札場跡と書かれた標柱がありました。このあたりは小さな集落になっています。

妻の神と書かれた標柱、奥に石祠がありました。

平六坂、上っていきます。

「中山道 平六坂」と彫られた石碑がありました。

平六茶屋跡と書かれた標柱。坂で疲れた旅人の休憩場所になっていたのでしょう。

草道は足裏にも優しく歩くのが気持ちが良いです。

江戸から89里 (約349.5km) の紅坂一里塚に到着。両塚現存。こちらは南塚。

北塚も綺麗に形を保っているように見えます。

両塚の様子。この間が中山道ということになります。

紅坂一里塚の石碑、説明板、そして標柱。てっぺんに若い木が植っています。榎を育てているのでしょうか。

うばヶ出茶屋跡と書かれた標柱。かつては賑わっていたのでしょう。

ぼたん岩に到着。ぱっと見岩らしきものは見当たらず説明板を読み始め、ふむ、と足元に視線を移すと・・・

ありました。牡丹の花のような模様が刻まれているように見える大きな岩でした。

一里塚の名前にもなっていた紅坂を下っていきます。石碑と標柱がありました。写真は歩いてきた方向を振り返ったところ。坂道は石畳が敷かれています。

紅坂を下り切ったところに「うばが茶屋跡」と書かれた標柱がありました。

黒すくも坂と書かれた標柱。さすが十三峠、坂道のアップダウンが続きます。

手前に佐倉宗五郎碑と書かれた標柱、奥に石碑と石祠があり、奥は稲荷神社になっているようです。調べると、佐倉宗五郎は佐倉藩の重税に苦しむ農民のために将軍に直訴するも処刑されてしまったと伝わる義民だそうで、英雄として全国各地で崇められていたみたいです。この祠もその一種かもしれません。

三社灯籠。由来はわかりませんが、菊の紋章が側面にあるのと、近くに神明神社があるのが手がかりになりそうです。

国道418号に合流したところで藤村高札場がありました。見事な姿で復元されています。

深萱 (ふかがや) 立場と書かれた説明板。大名の休憩にも対応する深萱立場本陣があったとのこと。

国道を離れ少し進んだところに大きな説明板がありました。地図上で右から左に進んでいるところで、現在位置は左側の 1/4 ぐらいのところです。少し先に「ちんちん石」があるそうです。気になります・・・。

「ちんちん石」はこのあたりのはず。墓所のようです。

この石が「ちんちん石」とのことです。石で岩を叩くと「チンチン」と甲高い音がするとのこと。墓場でそんな騒ぎ立てるようなことするのもちょっと・・・と思い眺めるだけにしました。

馬茶屋跡と書かれた標柱と、だいぶ苔むした中山道の石碑。あたりは竹藪になっています。

西坂を上っていきます。

次の大湫 (おおくて) 宿はまだまだ先です。

ばばが茶屋跡と書かれた標柱と石碑。

みちじろ峠と書かれた標柱。漢字では「三城峠」と書くそうです。

下座切場跡。調べると、大名等が通る際に村の役人が土下座をした場所だそうです。

「中山道 是より藤」と書かれた大きな石碑。恵那市と瑞浪市の境界付近に鎮座しています。昭和62年 (1987年) に建立されたそうです。

大久後の向茶屋跡と書かれた標柱、ぽっかり空いた空き地になっています。

大久後観音坂を上っていきます。旧坂なので、明治天皇の巡幸の際には北側にある新道を経由されたとのこと。

観音坂と馬頭様と書かれた説明板。起伏に富んだ尾根道なので「十三峠におまけが七つ」と言われたとか。

説明板にあった馬頭様。道中安全祈願。

天保2年 (1841年) 建立の「観音坂の霊場巡拝碑」。

灰くべ餅の出茶屋跡と書かれた標柱。直焼きの「灰くべ餅」が名物であったと伝わる茶屋があったそうです。

「大久後の観音堂と弘法様」と書かれた標柱、奥に弘法大師の石像が見えます。観音堂は現存しないようです。

権現坂を上っていきます。なかなかの急坂が続いています。

炭焼立場跡と書かれた説明板。昔は眺望もよく旅人に人気の休憩スポットだったそうです。

車両通行止めの未舗装路へ。

地面に石灰が撒かれ、杭には注意書きがあります。

「この山域において、CSF (豚熱) ウイルスに感染した野生イノシシが見つかっています。CSF (豚熱) ウイルスは、物について運ばれる恐れがあることから、他の地域への感染拡大を防ぐため、靴底の泥をよく落し、石灰帯で靴底を消毒してください。」

特に案内のない分岐道。右手の直線は通った跡があまりないので左手の巻き道を進みました。

江戸から90里 (約353.5km) の権現山一里塚に到着。両塚現存。高さも結構あります。写真は北塚。

南塚も結構な高さがあります。

両方の塚をアングルに収めたくて斜面を上ってみました。塚の上には複数の切り株がありました。

巡礼水の坂を上っていきます。本当にアップダウンが多いです。

ゴルフ場のカート道が中山道を横切っていました。

奥にゴルフコースの芝生が見えました。

巡礼水に到着。病気になってしまった巡礼中の母娘がここで念仏を唱えると水が湧き出したと伝わる地とのこと。

現在は枯れてしまった模様。

曽根松坂を上っていきます。壬戊紀行の一文が彫られた石碑がありました。

美しい松林の中を抜けていきます。

阿波屋の茶屋跡と書かれた石碑。奥には休憩所と小屋のようなものがあります。

小屋ではなく、三十三体の馬頭観音像が集められた石窟でした。

近隣の村から寄進された馬頭観音が並んでいるほか、石窟前の石柱には様々な飛脚 (江戸時代の運送業者) の名前が彫られているそうです。

石像がたくさん並んでいるのが見えます。

尻冷しの地蔵尊。右手奥にある石像がそれでしょうか。斜面から流れてくる湧き水でお尻を冷やしているように見えることからそう呼ばれるようになったそうです。

しゃれこ坂 (八丁坂) を上っていきます。奥の石碑は観音碑とのことです。

こちらは山之神坂。ちょうど上り切ったあたりに石碑がありました。

竜子ヶ根と書かれた石碑。まもなく大湫宿のはず。

寺坂 (?) の石仏群と書かれた標柱、奥に様々な形の石碑が並んでいるのが見えます。

十三峠の出口に石碑がありました。

十三峠を無事超えました。これより大湫宿。

十三峠 ▶︎ 大湫宿 (47/69)

大湫 (おおくて) 宿に入りました。ようやく人里に下りてきた感じ、ホッとします。

宿内は人気がまばらですが、同じ YAMAP を使っている登山客と出会いました。

本陣跡でもある小学校跡を訪れてみました。

大湫小学校跡の碑。ピカピカです。調べると、平成17年 (2005年) に閉校になり、同30年 (2018年) に校舎が取り壊され更地になったそうです。この石碑はそのあとに建てられたのでしょう。

地理座標と海抜 530m が刻まれた石碑。

小学校裏の山は本陣山というそうです。

シーラカンスだ!

皇女和宮御歌碑。

土手の上に赤い屋根に白い壁の美しい2階建て校舎が建っていたそうです。手前の広場は校庭だったようです。

校庭を抜けて宿場に戻ります。

立派なコミュニティセンターがありました。

この歴史ありそうな建物は旧森川訓行家住宅。観光案内所兼休憩所になっていました。お邪魔してみます。

広々としたお座敷を眺めながら大湫宿のお話を色々と聞くことができました。

大湫は「大久手」と書かれることもあるそうです。次の宿場が「細久手」。宿のシンボルは神明神社の大杉と観音堂とのこと。ただ先ほどの案内所の方によると大杉は倒れてしまったそうです。

旧森川訓行家住宅の裏手には美しい庭園がありました。

情報収集と休憩を終え、旧森川訓行家住宅を後にします。

すぐ隣に五平餅屋さんがありました。香ばしくてとても美味しかったです。このあとみたらし団子もオーダーしました。これは腹持ちも良さそうです。

脇本陣跡。歴史ある建物が一部残っています。

街のシンボル、大湫神明神社の御神木の大杉に到着。3年前の台風で倒れてしまって変わり果てたお姿に。

「樹齢1300年と伝えられていたのに、倒木を調べたら約650年だったんだよ」と観光案内所の方が笑いながら話していました。まあ生きている木の樹齢の推定は難しいですよね。

大杉再生の取組みと書かれた説明板。鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏は二代目を育てていますが、大湫の大杉は幹の一部をオブジェ化して保存する道を選んだようです。

大杉の次は観音堂に向かいます。街道を離れ坂道を上っていきます。

観音堂に到着。ここは裏手のようです。表面に回ります。

表に回ってきました。屋根や梁が複雑な形をしています。

宿内、近郷はもちろん旅人からも厚い信仰を受けて賑わってきたそうです。現在の建物は弘化4年 (1847年) に再建されたもの。

足腰の病にご利益のある観音様。まずは合掌・礼拝、次に釣鐘を鳴らすとご利益を受けられるそうです。お賽銭と合掌も忘れずに。

想いを込めすぎて宿中に響く大音響を出してしまいました。

観音堂を下りて街道に合流。美濃瑞浪三十三霊場の第四番札所とのこと。

大湫宿高札場跡。ずっしりと高札が並んでいます。宿場を抜け、琵琶峠へと歩を進めます。

大湫宿 (47/69) ▶︎ 琵琶峠

小坂の馬頭様。右手は文字碑で左手が石仏像。

広重の木曽街道六十九次の大久手宿の絵が描かれた説明板がありました。峠を越えまた峠といった感じでしょうか。

二つ岩に到着。大湫宿内にあったものと同じスタイルのオブジェがありました。

大洞の馬頭様には石碑もありました。さきほどの広重の画はここから東方を眺めたものであるとのことです。

巨大な岩に遭遇。「二つ岩」の一つ「烏帽子岩」とのことです。もう一つの「母衣岩」はこの右手にありました。

ここから琵琶峠の峠道。大湫宿から本陣山に入っていた登山客とここでまた会いました。

馬頭観音像と「琵琶峠東上り口」と書かれた石碑がありました。

石畳の琵琶峠を上っていきます。休憩ベンチも整備されていました。

琵琶峠頂上の馬頭様。皇女和宮が読んだ歌の歌碑もありました。

琵琶峠 ▶︎ 細久手宿 (48/69)

琵琶峠を下っていると、美しい一里塚が見えてきました。

江戸から91里 (約357.4km) の八瀬沢一里塚に到着。両塚現存。

北塚の様子。

こちらは南塚。説明板には一里塚の説明のほか石畳についても書かれていて「日本一長い (全長約730m)」との記載がありました。

長い石畳をひたすら進みます。

「琵琶峠西上り口」と書かれた石碑がありました。これで峠を抜けたようです。

国際犬訓練所という施設がありました。犬のしつけを専門にしているそうです。

道端に一つ屋茶屋跡と書かれた標柱がありました。

天神辻の地蔵尊。崩れかかった屋根付き休憩ベンチの脇に鎮座していました。

焼坂の馬頭様。たくさんの馬頭観音が旅人を見守ります。

弁財天の池に到着。その名の通り弁財天が行けの左手に鎮座しています。

弁財天の小島には石橋で渡ることができます。

女男末の跡と書かれた標柱、かつて2本の松が並んで立っていたそうです。

江戸から92里 (約361.3km) の奥之田一里塚に到着。両塚現存。写真は南塚。

こちらは北塚。

両塚現存している様子を写真に収めようと、側面に上ってみました。まずは北塚から南塚方面。

南塚から北塚方面。

道が舗装路になっても塚が残されていてなによりです。

三国見晴し台と馬頭様と書かれた標柱、奥に石仏像がありました。左手の説明板には馬の無病息災を祈るものと解説されていました。

細久手宿この先すぐ。

コミュニティバスの細久手バス停の脇に、日𠮷第二小学校跡と書かれた大きな石碑。

高札場跡は特になにもありません。

宿場っぽい雰囲気になってきました。

公民館の前に細久手宿の案内板がありました。

旅籠屋「大黒屋」は尾張藩の本陣でもあったそうで、しかも現在も旅館営業中。ベンチで一休みしていたら、同じく中山道を西進しているウォーカーと出会いました。

細久手宿の本陣跡の石碑。明治維新で廃陣となった。

細久手宿 (48/69) ▶︎ 物見峠

旧中仙道くじ場跡と書かれた石碑。かつてはこのあたりに人家があったそうです。

陸軍大将福島安正馬水池と名付けられた池。シベリア大陸を偵察のため単騎横断したこともあるという福島大将が中山道を通行中、愛馬に水を与えたと伝わる池とのこと。

開元院と書かれた道案内の標柱があり、色々と文字が彫られた石碑が建っていて情報量が多いです。開元院という曹洞宗のお寺がここから分岐する道の先にあるようです。

秋葉坂の三尊石窟に到着。街道を見下ろすように鎮座しています。右が明和5年 (1768年) に作られた三面六臂 (顔が3つで腕が6本) の馬頭観音像、中央が一面六臂の観音坐像、左は風化の進んだ石仏。

秋葉坂の三尊石窟の説明板。この上に秋葉様が祀られていることから秋葉坂という名前がついたそうです。

交差路に差し掛かったところに「鴨之巣辻の道祖神碑」と書かれた標柱があり、右手に「右 旧鎌倉街道迄約一里余」と彫られた道標と「道祖神」と彫られた文字碑がありました。

切られヶ洞と彫られた石碑。ここで人が切られたりしたのでしょうか。

江戸から93里 (約365.2km) の鴨之巣一里塚に到着。両塚現存。地形の関係で写真の北塚は南塚より少し東側にずれた位置に築かれています。

南塚もばっちり塚の形を保っています。

山内嘉助屋敷跡と書かれた石碑。酒造業を営んだ山内家の屋敷があった地とのことです。石碑の右側に大きな石垣が残っています。

下ってきた坂を振り返ったところ。「至御殿場」の御殿場は物見峠のことのようです。

中仙道と彫られた石碑のほか「津橋村聞道義校 (学校) 跡地」と書かれた石碑がありました。調べると聞道義校は現在の御嵩町立上之郷小学校のルーツのようです。

御殿場に向かって坂を上っていきます。

詰んだ石で大事に守られた馬頭観音。街道を高いところから見下ろすように鎮座しています。

砂利道を上っていきます。まもなく物見峠の頂上。

物見峠に到着。馬の水飲み場と書かれた説明板があり、奥に水たまりがありました。かつて5軒の茶屋があったそう。このあたりは道中の案内にもあったように御殿場とも呼ばれていますが、文久元年 (1861年) の皇女和宮の下向の際にここで休憩するための仮御殿を設営したことからそう呼ばれるようになったそうです。

物見峠 ▶︎ 御嶽宿 (49/69)

唄清水と書かれた石碑と水たまりがあるものの飲用はできないようです。

銘水の泉。こちらも飲用不可。江戸時代は旅人や馬の喉を潤していたそうです。

十本木立場と書かれた説明板がありました。かつて茶屋が建てられ旅人の休憩所になっていたそうです。

江戸から94里 (約369.2km) の謡坂十本木 (うとうざかじゅっぽんぎ) 一里塚に到着。現存せず、目の前の盛り土は昭和48年 (1973年) に復元されたものだそうです。

広重の木曽海道六十九次の御嶽の画のモデル地の説明板がありました。「きちん宿」(木賃宿) と書かれた庶民向けの宿に集まる旅人を描いているという珍しい構成とのことです。旅籠は食事付きの宿ですが、木賃宿は薪代 (木賃) を払い食事は自炊の安宿です。

みたけいろは茶屋は残念ながら定休日で利用できず。

十本木茶屋跡の説明板が立っていました。

謡坂石畳と書かれた石碑。美しい石畳の坂を下っていきます。写真は歩いてきた道を振り返ったところ。

謡坂を下りきりました。写真は歩いてきた道を振り返ったところです。

耳神社という変わった名前の神社がありました。その名の通り耳の病気にご利益があるらしい神社。

謡坂が最後の坂かと思ったら、まだありました。名前は「牛の鼻欠け坂」。「荷物を背に登ってくる牛の鼻がずれて欠けてしまうほどの急な登り坂でした」とのこと。

牛の鼻欠け坂を下りきりました。京から江戸に向かう旅人にとっては、ここがアップダウンの続く長い峠歩きの入り口でもあります。

ふと気配を感じ畑に目をやると3体のかかしが面白い格好をしていました。

御嶽宿の本陣跡に到着しました。現存せず明治・大正期に建て替えられたものだそうですが、雰囲気あります。

こちらは脇本陣の跡地に立つ「中山道みたけ館」、資料館になっているようです。

名鉄広見線の終着駅である御嵩駅に到着。ようやく公共交通のある場所に戻ってきました。途中から一緒に歩いてきた中山道ウォーカー2人のうち1人はここで離脱していきました。私はもう1人と次の宿まで歩くことにしました。

御嶽宿 (49/69) ▶︎ 伏見宿 (50/69)

鬼の首塚に到着。正治の頃 (1190〜1200年) に頗る凶暴で悪行三昧、乱暴狼藉を極めていた男がおり、ある日に女装して祭礼に訪れたところを捉えて首を切るも、運んでいる最中にここで首桶が重くなって動けなくなり、この地に埋めたそうです。

伏見宿の本陣跡に到着しました。立派な石碑が建てられています。

伏見宿 (50/69) ▶︎ 明智駅

ここで中山道を離脱、名鉄広見線の明智駅へ向かいます。

平具戸橋で可児川を渡ったところで御嵩町から可児市に入りました。

平具戸橋より可児川上流方面。支流のいくつかは道中跨いできました (平岩辻や津橋など)。可児川はこの先美濃太田の先あたりで木曽川に合流し、伊勢湾に注ぎます。

明智駅に到着、恵那から 37.7km で獲得標高は 1,000m を越えました。流石にヘトヘトになりました。

なかなか年代物っぽい電車がやってきました。新可児、犬山と名鉄電車を乗り換えて名古屋から新幹線で帰路に就きました。

続き中山道六十九次 (12/16) 伏見→美江寺