中山道六十九次 (10/16) 大妻籠→恵那
東京の日本橋から旧中山道経由で京都の三条大橋を目指すウォーキングの10日目です。全行程のリンクと注意事項、アドバイスなどはこちらをご覧ください。
概要
- 活動日: 2023年5月2日
- 歩行距離: 35.5km
- 獲得標高: 🔺790m 🔻1003m
- 出発: 07:34 大妻籠宿 (つたむらや)
- 到着: 18:35 恵那市内 (ホテルルートイン恵那)
- 合計時間: 11時間5分
- 休憩時間: 3時間2分
- 旧街道足跡マップ: https://kaidotrail.github.io/nakasendo.html
- ヤマップ活動記録: https://yamap.com/activities/24006737 (3日目)
記録
大妻籠 間の宿 (42.5/69) ▶︎ 馬籠峠
| つたむらやではぐっすり睡眠を取ることができました。朝食は朝7時、広間に下りてきたら薪ストーブが灯っていました。 |
| つたむらやの朝ごはん。川の幸、山の幸が彩を添えています。峠越えに備えてしっかり腹ごしらえしました。 |
| 朝食を終え部屋に戻ってくると、布団干しが始まっていました。 |
| 7時半すぎ、お世話になったつたむらやを出発しました。色とりどりの布団が並んでいて風情があります。 |
| 別角度よりもう一枚。 |
| 県道を横切った先に石畳が整備されていました。道標のような石碑も置かれています。 |
| 江戸から81里 (約318.1km) の下り谷の一里塚跡に到着しました。江戸時代水害等で幾度となく道筋が変わったことから、実際の一里塚は川の対岸にあったそうです。なお、案内板では七十九里目と書かれていますが、ルート変更によるものかもしれません。 |
| 牛頭観音の案内板と石像がありました。荷物の運搬に使われていた黒牛の供養塔とのことです。馬頭観音には道中よく出逢いまいますが、牛頭は珍しいように思います。 |
| よく見ると頭の上に牛の頭が載っています。 |
| 倉科祖霊社に到着。木曽氏と小笠原氏の抗争で小笠原氏の重臣である倉科七郎左衛門が討たれた地とのことです。 |
| 男滝 (おだき) に到着。この右手奥には女滝 (めだき) もあります。 |
| 男滝女滝の案内板。ここは古くから旅人にとって名所だったようです。現在、付近の道の土砂崩れによりここは迂回路の一部となっていますが、復旧後も迂回して見に行く価値があると思います。 |
| こちらは女滝。水量は男滝よりも少ないようですが、こちらのほうが落差があります。 |
| しばらく迂回路の県道7号の舗装路を歩いたあと原道に合流し、再び舗装路を跨いで石畳に進んでいきます。案内板には、道路整備の都合で原道を横切る必要があったので、原道自体は壊さず舗装路の下に埋めて保存している旨が記されています。 |
| 石碑にうっすらと中山道と刻まれているのが読めます。 |
| 一石栃 (いちこくとち) 白木改 (しらきあらため) 番所跡に到着。関所門のようなオブジェがお出迎え。白木改は持ち出しが禁止されている材木を運んでいないかチェックする取り締まる場所です。 |
| 門の先に一石栃立場茶屋があります。大きな枝垂れ桜と歴史ある建物がいい味を出しています。 |
| インバウンドのお客さんの寄せ書きがありました。アジア、南米、北米、欧州とさまざまな国の名前が並んでいます。 |
| 馬籠峠の頂点、標高 790m に到着。ここから再び県道7号を跨いで馬籠宿へと下っていきます。 |
| 馬籠峠と彫られた石碑もありました。 |
| 碓氷峠の軽井沢以来ずっと長野県を歩いてきましたがここでお別れ。岐阜県に突入です。 |
馬籠峠 ▶︎ 馬籠宿 (43/69)
| 標高 777m! |
| 熊鈴ヨシ! |
| 猫ちゃんと目が合いました。 |
| 十返舎一九狂歌碑。木曽街道膝栗毛に書かれていたもので、「渋皮のむけし女は見えねども 栗のこはめしここの名物」と詠まれたそうです。渋皮のむけた女ってどんな女なんでしょうか。 |
| 綺麗に敷かれた石畳の梨子ノ木坂を下ってきました。 |
| 水車小屋の水車がくるくると回っていました。 |
| 峠の集落、水車塚の碑、そして栗こわめしについて書かれた案内板。峠の集落は、先ほどの猫ちゃんがいたあたりにある集落を指しています。 |
| 案内板にあった水車塚の碑はこちらのようです。馬籠宿生まれの小説家である島崎藤村と親交があった一家がここで暮らしていたが水害で流されてしまい、藤村が碑文を作ったそうです。 |
| 県道の舗装路を越え、再び旧道に進んでいきます。 |
| 馬籠見晴台に到着。恵那山を含む木曽山脈の南端部がよく見渡せます。 |
| 南西部に目を移すと手前に馬籠宿の北端部、奥に中津川の街並みがうっすら見えました。 |
| 恵那山の標柱、真南方向に恵那山が見えるというだけでここが恵那山というわけではないのでちょっと不思議な感じです。恵那山は日本百名山でもあり、いつか登ってみたいです。ただし山頂からの眺めはいまひとつだそうです。 |
| 島崎藤村の歌碑がありました。「心を起きうと思はば 先づ身を起こせ」。心を起そうと思わばまず身を起こせ、ということですね。 |
| 馬籠祝の高札場は元々の場所に忠実に再現されているそうです。 |
| 馬籠宿内に入っていきます。現在午前9時過ぎ、まだ観光客はまばらのようです。 |
| いい景色。 |
| 中心部につれて観光客が多くなってきました。 |
| このあたりの右手に脇本陣があるはず・・・。 |
| 本陣に到着。藤村記念館になっています。昨年秋には通り過ぎてしまったので今日はじっくり見学していこうと思います。 |
| 「木曽路はすべて山の中である。」有名な「夜明け前」の書き出し。 |
| 馬籠宿本陣隠居所。母屋は明治28年 (1895年) に焼失も、この隠居所は残ったとのこと。明治初期には藤村の勉強部屋だったそうです。 |
| 居心地の良さそうな書斎。 |
| 本陣土蔵跡。案内板には「ふるさと」の一節。 |
| こちらは池にまつわる一節。 |
| 最後に広い庭園を散策。 |
| 牡丹のある柵には「家」と「夜明け前」の一節。 |
| 1時間ぐらい入り浸ってしまいました。街道歩き再開です。 |
| ・・・と思ったところに美味しそうな香りが。ちょうど小腹が空いてきたとこなのでおやきをいただきます。 |
| 野沢菜入りおやき。香ばしくて美味しいです。 |
| だいぶ賑わってきました。 |
| 桝形に到着。大きな水車が回っていました。 |
| 道が左右に大きく曲がる桝形の形状がよくわかります。ここが馬籠宿の南端。これより馬籠宿を後にし、落合宿へ向かいます。 |
馬籠宿 (43/69) ▶︎ 十曲峠
| 室町時代にこの地に馬籠城があったそうです。 |
| 島崎正樹翁記念碑。島崎藤村の父にあたるお方の記念碑です。 |
| 馬籠宿を後にしたあとも落合宿に向けて下り坂が続きます。のどかな里山風景が広がります。 |
| 見晴らしのよい広場に正岡子規の句碑が鎮座しています。「桑の実の木曽路出づれば穂麦かな」と彫られているそうです。 |
| 信州サンセットポイント百選。サンセットまで待っていたら大変なので、歩を進めます。 |
| さすがサンセットポイント、良い眺めです。 |
| 「是より北 木曽路」碑。木曽路歩きがとても充実していたので、つい2ヶ月前に通った「是より南 木曽路」碑が遠い昔のようです。 |
| この辺りの地名を「新茶屋」というそうで、かつてここに立場茶屋があったそうです。名物はわらび餅だったとのこと。 |
| 江戸から83里 (約 326km) の新茶屋の一里塚に到着。両塚現存のようです。こちらは南東側の塚。 |
| こちらは北西側の塚。松の木が植っていますが、木自体は新しいもののようです。手前右手の標柱には「美濃 信濃 国境」と彫られています。 |
| 一里塚の脇には案内板も設置されていました。 |
| 落合の石畳へと進みます。舗装と石畳が並んでいてちょっと珍しい光景。 |
| なんじゃもんじゃの杜と書かれた案内板がありました。植樹したものとのこと。 |
| 中津川市長の名で石碑が建っています。 |
| うねうねと曲がる石畳。風情があります。 |
| 落合の石畳の解説。図中の赤色の部分が往時から残る箇所で、残りは昭和63年度から平成7年度にかけて修復されたものとのことです。違いがわからないほど美しく調和した石畳の姿でした。 |
| 石畳の出口に到達。写真は歩いてきた道を振り返ったところです。ここからは舗装路です。 |
| 現代の道では峠感が薄れているそうですが、一応十曲峠を超えてきたようです。 |
| だいぶ人里に下りてきた感じがします。まもなく落合宿。 |
十曲峠 ▶︎ 落合宿 (44/69)
| 落合川を渡ります。 |
| 落合川の上流方向には砂防ダムがあり、勢いよく水が注いでいました。 |
| 道の合わさる場所に立っている道標。奥には道祖神のような石像が並んでいます。 |
| 右 飯田?と書かれているように見えます。 |
| このあたりの中山道は何度かルートが変更になっていたようです。30年間近い間、中山道は十曲峠も落合川の橋も避けたルートだったとのこと。 |
| 落合宿の高札場に到着。令和4年 (2022年) に復元されました。 |
| 桝形を通ってメインストリートへ。常夜燈がお出迎え。 |
| こちらにも常夜燈。 |
| 上の上田屋上田家住宅主屋。登録有形文化財とのこと。 |
| ちょうどお昼時なので何か食べたいなと思っていたところにいい感じのランチメニューを掲示しているお店がありました。 |
| 古民家の雰囲気あふれる落ち着く感じ。 |
| 山菜の天ぷらと筍ごはん定食を頂きました。優しい味付けでお店の雰囲気も相待ってたっぷり癒されました。でもハイカーにはちょっとボリューム不足ではあります。 |
| 先ほどのお店で紹介してもらった高福寺というお寺にお邪魔してみました。 |
| とても立派な桜の木が2つ並んでいます。どちらも樹齢200年余りと言われています。 |
| 境内には小さな庭園もありました。 |
| 街道に戻って宿場ウォーキング再開、脇本陣跡と書かれた石碑がありました。 |
| 本陣跡に到着。残念ながら休館日でした。 |
| 立派な門が残っています。落合宿は文化元年 (1804年) と文化12年 (1815年) に大火があったそうですが、この本陣はそのあとに再建されたものが現代まで残っているそうです。 |
| 道に大きくせりだした松の木。は善昌寺の「門冠の松」。創建当時の山門を覆うように立っていたことからそう呼ばれているそうです。 |
| 桝形を西に曲がって落合宿を跡にします。こちらにも大きな常夜燈がありました。 |
落合宿 (44/69) ▶︎ 中津川宿 (45/69)
| 藤の花に見送られて中津川宿へと歩を進めます。 |
| なかなかカラフルな車体のバスが通り過ぎていきました。栗がモチーフらしい「まろんちゃん」というキャラクターが描かれています。 |
| 国道19号をくぐって旧道に戻ります。 |
| 弘法大師三十六番札所と書かれた石碑、そしてお地蔵様。この後が与坂立場跡になります。 |
| こちらが与坂立場跡。「立場茶屋 越前屋」というカフェが営業中。 |
| 江戸から84里 (約 329.9km) の子野一里塚跡に到着。現存はしていませんが、雰囲気あるもっこりがあります。 |
| さっと視界が開けて中津川の市街がみえてきました。峠を下ってからも細かいアップダウンが続いていましたが、ここから先はしばらく平地歩きのはず・・・です。 |
| ありがたいことに、道中に綺麗なトイレが整備されていました。とても助かります。 |
| 子野の地蔵堂石仏群に到着しました。様々な石仏が並んでいます。奥にあるのが地蔵堂のようです。 |
| 子野の地蔵堂石仏群の案内板。無縁の石仏を集めたところとのことです。元禄七年 (1694年) の庚申塚とは、庚申塔ブームの最初期でもあり相当な年代物ですね。 |
| 第一用水上金水力発電所と書かれた案内板がありました。約350年前に作られた用水路の落差を利用して平成24年 (2012年) に出来た小さな水力発電所とのことです。 |
| 地下道で国道を渡った先に変わった石像がありました。 |
| 恵那山方面が綺麗に見えました。 |
| 尾州白木改番所跡に到着しました。馬籠峠にあったものと同じ材木の取り締まりをする場所になります。 |
| 鮮やかな鳥居の並ぶ稲荷神社に寄り道してみました。 |
| 道中からも見えたたくさんの鳥居が並んでいるところを潜ってお邪魔します。 |
| 本堂に到着、私の他に地元の方と思われる参拝客がいました。 |
| 芭蕉句碑がありました。「山路来て何や羅遊かし寿み連草」と彫られているようです。 |
| 中津川宿の高札場に到着しました。大きな高札が並んでいて迫力があります。 |
| 常夜燈、横に庚申塔と二十三夜塔。 |
| 中津川宿の宿内に入ってきて雰囲気がガラッと変わりました。 |
| 資料館を出て正面が本陣跡。間取りからとても立派な作りだったことが想像できます。 |
| こちらは庄屋跡。鯉のぼりが掲げられていました。そういえば今日は5月2日。こどもの日はまもなくです。 |
| 街道脇に立派な常夜燈。右手の案内板はここにあった旅籠の解説をしています。 |
| 大泉寺跡と御退道と書かれた案内板。それぞれ本陣に宿泊する大名などの避難所・避難経路の役割を担ったとのことです。 |
| 枡形に到着。これまた綺麗に折れ曲がった道が残っています。 |
| 枡形は敵の進軍を遅らせる目的と説明を受けることが多いですが、ここでは宿場の中心地が直線的に見渡せないようにする工夫と解説されています。 |
| 枡形の中の様子。電柱も地中化されいい雰囲気です。 |
| 枡形の末端に恵那神社へ至る道標が立っていました。 |
| 常夜燈と津島神社の祠。街道脇にひっそりと鎮座しています。 |
中津川宿 (45/69) ▶︎ 坂本 間の宿 (45.5/69)
| いかにも廃線跡な遊歩道を跨ぎます。昭和44年 (1969年) に廃線になった旧本州製紙中津工場専用線の跡とのことです。 |
| こちらは遊歩道の反対側。綺麗に整備されています。 |
| 廃線跡はミニ中山道と呼ばれているそうです。 |
| 中津川橋で中津川を渡ります。奥の基礎山脈から流れてきた澄んだ水がこの後で木曽川に合流します。 |
| 下流方向。中央本線の橋梁を列車が走り抜けていきました。 |
| 駒場村の高札場跡と書かれた標柱がありました。建物の壁に高札が3つ掲げられています。 |
| かつての東山道の坂本駅がこのあたりにあったと推定される地のようです。中山道としては「こでの木坂」と呼ばれていて、馬車を上げるのに苦労した難所だったそうです。 |
| こでの木坂を上っていきます。 |
| 坂を上り終えると、江戸から85里 (約 333.8km) の上宿の一里塚に到着しました。明治天皇御鳳輦前駆奉仕蹟と彫られた石碑も建っています。 |
| 広角レンズで全体像を写してみました。南塚は消失、写真の北塚は 1/3 サイズで復元されたものとのことです。 |
| 小石塚の立場跡と書かれた石碑がありました。 |
| 国道との突き当たりに嵐讃岐の供養碑がありました。木曽家の有力武将であった嵐讃岐氏を供養するために建てられた碑とのことです。 |
| 国道19号と国道257号が合流する地点に旧中山道の道筋も飲み込まれてしまっています。歩行者は図示されたルートで迂回する必要があります。 |
| 六地蔵石幢と書かれた案内板と、それらしき石仏が鎮座していました。中山道からお寺への参道への分岐点に案内代わりに置かれたようです。六角柱で六面にお地蔵さんが立っているのには、常に六道を巡って衆生を救い極楽に行けるようにとの思いが込められているそうです。 |
| 千日林村の高札場跡と書かれた石碑がありました。 |
| またいい眺めになってきました。道端に座っているおっちゃんから「お兄ちゃん、どっからきたの?」「今日はどこまで?」「がんばってな!」と声をかけてもらいました。 |
| 分岐道標と書かれた案内板と、それらしき石柱がありました。分岐している写真奥の道は、美乃坂本方面に至る道のようです。 |
| 木曽路を抜けたんだなと実感する風景。夕日を浴びた中央本線の列車がステンレス車体を輝かせて過ぎ去っていきます。 |
| 神明の森と呼ばれている森。神明神社や津島神社、妙見社の3社がお祀りしてあるそうです。 |
| 将監塚に到着しました。かつて信長に仕えた岡田将監善同の塚と伝わっているそうです。 |
| 将監塚の案内板。信長に仕えていたものの関ヶ原では東軍 (徳川方) についたことも記されています。 |
| 江戸から86里 (約 337.7km) の三ツ家一里塚跡に到着しました。実は街道から少し奥まったとこにあるので気づかず、100m ほど通り過ぎてから気づいて引き返して訪れたものです。 |
| 草をかき分け石碑に寄ってみました。これが立っている位置が塚のあった場所ということでしょうか。 |
| 坂本立場跡と書かれた石碑がありました。坂本立場は間の宿として栄えたとの記録もあります。 |
坂本 間の宿 (45.5/69) ▶︎ 大井宿 (46/69)
| 出来立ての橋脚が並んでいます。後で調べてみたところによると、これは濃飛横断自動車道を建設しているところのようです。 |
| 茄子川村の高札場跡と書かれた石碑がありました。 |
| 尾州白木改番所跡がここにも。材木の取り締まり場です。 |
| 茄子川小休所 篠原家に到着しました。行幸中の明治天皇もここでお休みになられたそうです。 |
| 加賀前田家の重臣である篠原家が運営していた小休所で、和宮も休憩されたそうです。当時の建物や表門等が現存しています。 |
| 茄子川村の解説板がありました。中津川宿と大井宿の間を埋める役割を担い、旅人の助けとなっていた村であることがわかります。 |
| 茄子川焼の案内板。有名な陶器の産地だったそうです。 |
| ようやく中津川市を抜け、恵那市に入りました。美しい田園風景です。 |
| 大きな中山道の石碑がありました。是より大井とも彫られています。 |
| この馬頭観音は大正14年 (1925年) に立てられたものとのこと。割と最近に感じますが、もう100年前になるんですね。 |
| 岡瀬坂と彫られた石碑がありました。たしかにアップダウンが増えてきました。 |
| 中山道大井宿岡瀬澤の社宮司の話と書かれた案内板がありました。奥に大きな榎が植っています。社宮司は木の神とのことです。 |
| 岡瀬澤の永代燈とあきば道と書かれた案内板、奥には常夜燈が鎮座しています。ここは道の分岐点でもあり、遠州秋葉山に参拝する道筋でもあったとのことです。 |
| 先ほどの常夜燈のすぐ右手には「中山道 岡瀬澤」と彫られた大きな石碑がありました。 |
| 道端の庚申塔。庚申の信仰について解説している案内板が添えられています。 |
| 甚平坂に到着しました。江戸時代から難所だったようで、明治13年 (1880年) の明治天皇の行幸の際には地域の人総出で坂の頂上を 2m 掘り下げて坂の傾斜をなだらかにしたとのことです。 |
| 坂の中腹にある犬塚。鎌倉時代に馬と犬を連れて化け鳥討伐に訪れた根津甚平という武士がこの坂まで追い詰めたが討伐を果たせず、息絶えた馬と犬をここに葬ったとのこと。 |
| 馬塚・犬塚の案内板。甚平坂の名前の由来もおそらくこの武士でしょう。 |
| 展望台のようなところまで上ってきました。広重の浮世絵を写し取ったものらしい石碑が鎮座していました。 |
| 展望台からの眺め。ちょうど歩いてきた方角を振り返った形です。木曽路を抜けてきたんだなあと実感する一時です。 |
| 甚平坂、最後の上りです。明治13年に掘り下げられるまでは、土手の上ぐらいの高さに道があったのでしょう。 |
| 「ようこそ中山道甚平坂公園へ」と書かれた横断幕がありました。右手は先ほどの石碑にも彫られていた広重の浮世絵。 |
| 江戸から87里 (約341.7km) の関戸一里塚跡に到着しました。現存しませんが、木が植っており良い雰囲気です。 |
| とても高さのある石塔、その名も「長石塔」。お寺の住職が平和の願って立てられたとのことです。 |
| こちらは上宿の石仏群。文字碑に観音像にと色々と並んでいます。 |
| 大井宿高札場に到着。ようやく宿内に入った感じです。五妙坂と書かれた石碑もあるように、かなりの急坂。まだ坂があったとは・・・。 |
| 大井宿の本陣跡に到着しました。立派な表門が現存しています。 |
| 大井宿本陣跡の案内板。母屋は昭和22年 (1947年) に焼けてしまったそうです。なお、案内板の下にも書いてある通りここは桝形の端。こんなところに本陣があるのは珍しいです。 |
| 舛方を抜けて大井宿の中心へ。立派な蔵もあり良い雰囲気です。 |
| こちらは中山道ひし屋資料館。庄屋を勤めていた旧家で、現在はその名の通り資料館になっています。 |
| 建物は明治初年に移築したものとのことです。 |
| 下問屋場跡の案内板。左下には脇本陣とも記されています。 |
| 明治天皇大井行在所にもなった旅籠屋さん。 |
| 旅館になっている建物の壁には、旅籠屋の様子を写した明治初年の貴重な写真が掲載されていました。 |
| 白木番所跡がここにも。材木の取り締まり拠点。 |
| 大井橋で阿木川 (あぎがわ) を渡ります。 |
| 阿木川の上流方面。奥に見える工場は王子マテリアの段ボール工場です。 |
| 恵那駅の発展により賑わいを増してきた様子が写真と共に紹介されています。 |
大井宿 (46/69) ▶︎ ホテルルートイン恵那
| お昼がさっぱりめだったのでお腹がぺこぺこです。ホテルに向かう途中にあった来来亭で晩御飯にしました。画像は一部加工済。 |
| 背脂がたくさん浮いていてカロリーもがっつり取れそうです。 |
| こちらが本日のお宿。半年前のハイキングでもここを利用していたので、再訪です。 |
| 周囲に高い建物がないので上層階からの眺めはなかなかです。明日も峠を歩くのでぐっすり身体を休めました。 |
続き: 中山道六十九次 (11/16) 恵那→伏見