中山道六十九次 (9/16) 上松→大妻籠

東京の日本橋から旧中山道経由で京都の三条大橋を目指すウォーキングの9日目です。全行程のリンクと注意事項、アドバイスなどはこちらをご覧ください

概要

記録

上松宿 (38/69) ▶︎ 寝覚の床 ※前日入り中の移動

前回から1ヶ月半以上空いてしまいましたが、その間に大妻籠と恵那の宿を予約、しっかり計画を立ててきました。上松には前日入りとし、近くにある寝覚の床を観光後、そこで宿泊して明日以降に備える計画です。

中山道に戻ってきました。ここから再開、写真右手奥に進んでいきます。なお、横断歩道の先にあるのは田政旅館という江戸時代から続く老舗旅館です。

標柱には中山道、寝覚の床のほか木曽駒ヶ岳の登山道の案内もありました。

寺坂を上る途中、駒嶽大神宮、心明霊神などと彫られた石碑が道端に並んでいました。駒ヶ岳神社に関連するものでしょうか。

寺坂を登りきったところに木曽駒ヶ岳登山道との分岐点がありました。

諏訪神社の鳥居がありました。お邪魔してみます。

鳥居をくぐったらなんと小学校の校庭になっていました。左手奥に上松小学校の校舎が見えます。

校庭の先に諏訪神社の社殿がありました。道中の無事を祈願しました。

諏訪神社の社殿の左手には五社神社と書かれた案内板と建物がありました。江戸時代は校庭の入口あたりに材木役所があり、そこの中庭に祀られていた五社神社をここに移したとあります。

諏訪神社の奥にはしめ縄の巻かれた木がありました。御神木でしょうか。

中山道に戻ってウォーキング再開、道端のバス停には中山道の名前が入っていました。「北みかり」と「南みかり」がありますが、「みかり」は地名でしょうか。

国道の上松バイパスをまたぐ道路から、長野方面に向かう中央本線の特急列車が見えました。

上松町コミュニティバスが通り過ぎていきました。

写真左手、旅館越前屋と書かれた古い建物がありました。江戸初期にあたる寛永元年 (1624年) 創業のそば屋で、400年もの歴史があることになります。十返舎一九の木曽街道中膝栗毛や島崎藤村の「夜明け前」にも登場する名店とのことです。よく見ると入口に「寿命そば」との看板も掛かっています。

右手の建物は「たせや」という立場茶屋で、大名の休憩にも対応していたとのことです。レトロな郵便ポストも良いアクセント。

時間もあるので寝覚の床には直行せず、もう少し中山道を歩くことにしました。中山道の標柱の隣に上松中学校入口との看板がありました。一瞬これが校門なのかと思いましたが、坂の上にしっかり校門がありました。

中学校の校門の先で車道が途絶え、その先は綺麗な石畳になっていました。

滑川を滑川橋で渡ります。木曽山脈に降り注いだ雨が川に集まり急流になっていました。

国道19号に合流したところで中山道を離れて逆方向に進み、寝覚の床美術公園に到着しました。

公園を散策していると、かわいい機関車が2台展示されていました。写真手前の機関車は No 90、奥の機関車は No 120 と記載されていました。

藪原に展示されていたモーターカーと同じ木曽森林鉄道で活躍した車両のようです。最盛期には総延長540kmにも達していたとのこと、途方もない距離です。

園内は散策路が整備されていました。いよいよ寝覚の床方面に向かっていきます。

中央本線の線路と、その上にレストラン「ねざめ亭」が見えました。手前のスペースには美術作品のオブジェがいくつか展示されていました。

寝覚の床が見えてきました。切り立つ岩場の間を木曽川が勢いよく流れています。前日の雨でいつも以上の流れになっているようです。

寝覚めの床の案内板がありました。木曽川の激流が長い年月をかけて花崗岩を侵食してできた地形とのことです。竜宮城から戻った浦島伝説が住み着いた場所とも伝えられています。

岩場を進み、浦島堂までやってきました。岩場のひときわ高くなっているところにひっそりと建っています。

レストラン「ねざめ亭」まで上ってきました。右手奥に寝覚の床が見えます。

レストランでアイスクリームをいただきました。寝覚の床をバックにパシャリ。

眼下に中央本線が走っているので、電車を撮影するのにうってつけらしく、展望テラスに通過時刻表が載っていました。現在時刻は14時、普通列車で練習したのち、上り特急列車を狙ってみることにしました。

寝覚の床をバックにカーブを通過する特急列車を撮影することができました。

夕ご飯は近くにある寿伊舎というおそば屋さんにしました。「絶景のそば処」との看板が踊っています。

寝覚の床が見える屋外の席でとろろそばを頂きました。蕎麦湯までおいしく頂きました。

おそば屋さんからも寝覚の床と特急列車を絡めた写真を撮ってみました。曇っていたのがちょっと残念です。

予約していた前泊地、ねざめホテルに到着しました。寝覚の床からすぐのところにあります。

ねざめホテルの客室の様子。広縁のついたよくあるスタイルの客室です。

とても景色の良い大浴場を独り占めできました。トロン温泉という人工温泉になっているそうです。

ホテル内の通路にカモシカ親子の剥製がありました。異常出産中に発見され手を尽くすも死亡してしまった親子とのことです。

寝覚の床 ▶︎ 須原宿 (39/69)

翌朝5時にホテルを出発しました。昨日は観光メインの前日入りだったので、今日からが実質中山道ウォーキング再開です。

道端にひっそりと馬頭観音が建っていました。

馬頭観音の上には石垣に文字が彫られており、「石垣 文化元甲子年八月下旬出来」と書かれた看板がありました。文化元年 (1805年) は江戸後期にあたります。

小野の滝に到着しました。中央本線の橋脚の奥に勢いよく滝が落ちています。

小野の滝の案内板がありました。中山道六十九次の浮世絵にも描かれた滝とのことです。

江戸から73里 (約286.7km) の荻原 (おぎわら) 一里塚跡に到着しました。現存しませんが、案内板と石碑がありました。

荻原一里塚跡の石碑の様子。右手に「中山道 荻原宿」と彫られているように見えますが、萩原宿という宿場町はないので、萩原集落を間の宿的な位置づけで記したのかもしれません。

廿三夜と書かれた二十三夜塔と、南無阿弥陀仏と書かれているらしい念仏塔がありました。「廿」は20を示す漢字で、二十三夜信仰という江戸時代に流行った信仰の痕跡です。

国道19号を南に進んでいきます。木曽山脈の険しい山肌が迫ります。この先左手に分かれる林道に木曽古道と書かれた案内板がありますが、中山道ができるよりずっと昔の8世紀頃の道の跡のようです。

国道から宮戸集落方面に旧道が分岐していきます。

民家の軒先の未舗装路が中山道とのことで、静かに通り抜けていきます。

完全な草道になりました。右手下には中央本線の線路があります。この坂は「くるみ坂」と呼ばれているそうです。

木曽古道の案内板がありました。草道はだいぶ深くなってきました。

木曽古道のルートを示した地図がありました。現在、地図上の左 (北) から右 (南) に向けて歩いていることになります。宮戸で中山道と合流したようです。

名古屋まで123kmのキロポストがありました。

倉本駅に到着しました。大きめな木造駅舎ですが無人駅のようです。

中山道の跡は線路で分断されており、駅の南側を回って迂回する必要がありました。写真は分断された先の道路の入口に到着したところで、この先が線路で行き止まりになっています。

少し進んだところ、すぐに舗装が途切れ、線路が見えました。

空木岳・木曽殿越方面の登山道はこの草道を上っていくようです。中山道は右手の舗装路をそのまま進みます。

古そうな住宅や蔵などが並んだ道になりました。

石碑や常夜燈が集まった場所がありました。案内板には庚申塔の解説が書かれていました。江戸時代中期のものがあるそうです。

中山道を示すオブジェがあり、草道の坂が中山道であることを案内していました。

草道の坂を下ると、今度は舗装路の坂道になりました。江戸時代の中山道は写真の背後方向に伸びていたそうですが、この先の大沢川を渡れないので写真の正面方向に下っていきます。

江戸から74里 (約290.6km) の倉本一里塚跡に到着しました。実際にはここより20m南にあったそうです。

倉本一里塚跡の石碑の様子。江戸より七十四里、京へ六十三里と彫られています。

国道から脇道に入り、池の尻集落に入っていきます。

木曽川の美しくも荒々しい川面を一望できました。奥の白い建物は生コン工場でした。

集落を抜けて国道に合流していきます。この先少し草道になっていました。

「ていしゃば」と書かれた廃屋がありました。食堂だったようです。

標高588mの標識がありました。シャクナゲの絵も描かれています。

国道と中央本線が平行しており、中津川行きの普通列車が駆け抜けていきました。

不自然な脇道があり、案の定右手が旧中山道のようです。右手に進んでいきます。

上郷バス停の脇に林道松淵沢開設記念碑と書かれた石碑がありました。木曽観光連盟のガイドブック「中山道を歩く」によると、林道を国道に沿うように進むと江戸時代の中山道の跡があるようです。

猿沢橋を渡ったところに気温が表示されていたのですが、シャッタースピードの関係で写真に写りませんでした。なお、江戸時代の中山道はこのあたりから中央本線の東側に伸びていたようですが、現在は線路で分断されていています。この先須原宿の手前に「えげ坂」という道が残っているそうです。

須原 (すはら) 宿の入口の到着しました。水舟の里と書かれた看板の足元奥にある石碑は、以前須原駅の駅舎の向かいにあった一里塚碑のあった場所に家が建ち、ここへ移設されてきたようです。

うだつの上がった特徴的な建物群が描かれています。

須原駅に到着しました。大きな木造駅舎ですが、現在は無人駅です。

駅名の看板からもだいぶ歴史を感じます。

街道に戻ったところ、高札場跡の看板がありました。

須原宿の中心街の様子。左手の住宅地に本陣があったようですが、案内板などは見当たりません。奥の少し高台になっているところに線路があり、列車が通過していきました。

「旧脇本陣 西尾家の沿革」と書かれた案内板と、西尾翁記念碑と書かれた石碑がありました。

西尾翁記念碑には説明文が彫られています。大正十年 (1921年) 二月とあり、100年以上前に建てられたことになります。

手前には水舟、奥には正岡子規の句碑がありました。「寝ぬ夜半をいかにあかさん 山里は月出つるほとの 空たにもなし」とあります。

直近に迫る山肌とゆったりとした街道、木曽路の宿場町の眺めを気持ちよく進んでいきます。

街道の脇に大きめのどぶがあり、ところどころ板を渡してあります。歴史のありそうな民家も立ち並んでいます。

再び水舟がありました。案内板もあります。「水舟の水のきをめぐりて」と歌われたこともある須原のシンボル的存在のようです。

別角度からもう一枚。花壇の水やりなどに使われているようです。

「民宿すはら」の前の水舟。この民宿は1日1組限定の一棟貸しの古民家のようです。素泊まりのみで最小1名、最大20名で宿泊できるそうです。

「須原宿 桝形 鍵屋の坂」と書かれた案内板がありました。中山道はここで直角に折れ曲がりこの細い道に進んでいきます。

鍵屋の坂を下って振り返ったところ。右手には出梁造りの民家、左手奥には立派な蔵が見えます。

須原宿 (39/69) ▶︎ 野尻宿 (40/69)

歩いてきた道を振り返ったところ。木曽山脈に沿ってカーブしてきたことがわかります。

道端に藤やチューリップなどが咲いていました。

第9仲仙道踏切で中央本線を渡ります。前回の第n仲仙道踏切は宮ノ越宿と中山道中間地点の間にあった第5仲仙道踏切で、そこからはずっと跨線橋かガード下をくぐる形態でした。線路の付け替えや立体交差化などで途中の踏切が減ったものと思われます。

踏切の先の上り坂を進んでいきます。木曽川を見下ろす景色になってきました。

奥に見える発電所は須原発電所で、ここから4km上流にある桃山発電所から引かれた導水路の水をここで一気に落として発電しているそうです。手前の堰は大桑堰堤で、ここから3.6km下流にある大桑発電所まで導水路が伸びているそうです。上流からみると、木曽ダム→寝覚発電所→上松発電所→桃山発電所→須原発電所(イマココ)→大桑発電所と導水路リレーで発電していることがわかりました。

伊奈川と木曽川の合流地点が近づいてきました。線路の先に伊奈川を渡る橋梁が見えます。中山道はここから伊奈川の少し上流側に迂回していきます。

大桑村橋場地区案内図と書かれた案内板がありました。左手にこれから渡る伊奈川が描かれています。案内図中央には車のターボチャージャー (過給機) の工場である IHI ターボの工場や、伊奈川の水を使った水力発電所である橋場発電所も描かれています。

伊那川橋の手前に「是より岩出山...」と書かれた石碑がありました。途中からは何て書いてあるのか読めませんでしたが、ここより左手にある岩出観音に関係するものかもしれません。

伊奈川橋 (伊那川橋とも) より上流方向。険しい木曽山脈の山々が臨めます。

ここから先の中山道は、元禄年間 (1700年頃) に木曽川沿いの街道が崩壊したことにより途中でルートが変更されています。当初はここを直進でしたが、その後この道標の通り左折し山側に迂回するようになりました。案内に従って左折して進みます。それにしても、道標の書体がかわいいですね。

道祖神がありました。右手には「中山道 大島」と書かれた石碑もあります。

サヨリ沢と呼ばれる小川沿いに街道が伸び、集落の中を進んでいきます。

中山道は右手の兼平山を迂回するように直進、のち右手に回り込んでいきます。

水害記念碑と書かれた石碑がありました。ちょうど100年前の大正12年 (1923年) に大水害があり、74名もの死者・行方不明者が出ました。この石碑は大水害の翌年に建てられたそうです。このあたりもハザードマップで警戒区域に指定されています。

山を迂回するため直角に曲がる交差点に到着しました。再びかわいい書体の道標に出会いました。

地久天長院と書かれた案内板がありました。この後ろにある臨済宗妙心寺派のお寺のことのようです。また、このあたりは合の宿 (間の宿) 平沢と呼ばれていたことも分かりました。木曽平沢の平沢とちょっと混同しそうになります。

第10仲仙道踏切で中央本線を渡り国道19号に戻ってきたところで中山道は南に進みますが、ここで一旦北へ逆走、中山道ルート変更前の経路上にあるらしい大桑一里塚によってみることにしました。

江戸から76里 (約298.5km) の大桑一里塚に到着しました。何やら新し目な石碑があります。

中仙道一里塚と書かれた石碑がありました。ここがルートだったころは表記が「中山道」に統一される享保元年 (1716年) より前なので、中 "仙" 道と書かれている事が古道を象徴しているようにも思えます (深読みし過ぎ?)。石碑には鎌倉時代からこの地が街道として栄えていたことなども記されています。

側面を覗き込んだところ、平成9年 (1997年) 2月に建てられた石碑であることがわかりました。

「モーテル?」と書かれた石碑がありました。よく見ると右上に小さく「関所跡」とも書かれていました。どうやら木曾義仲が一時期ここに関所をおいていたらしいです。

道の駅大桑に到着しました。現在朝9時ちょっと前。朝5時に出発して以来、あまり休憩せずにここまで来てしまったので、ここで長めの休憩を取ることにしました。

地元産の牛乳と、同じく地元産のブルーベリーゼリーを買ってみました。慣れない紙蓋にまたもや苦戦しましたが、なかなか美味な組み合わせを味わえました。牛乳瓶には AGEMATSU (上松) FUJIHARA MILK PLANT (藤原牛乳店) と書かれていました。

南無妙法蓮華経と書かれているらしい石碑がありました。

石碑の隣に案内板があり、石碑の台座が「いぼ石」と呼ばれているそうです。イボのできた人がこの石に触るとイボが治ったという言い伝えがあるとか。私はイボがないので触らず眺めるだけにしました。

小さな祠の隣に常夜燈がありました。このあたりから野尻宿のようです。

野尻宿本陣跡に到着しました。明治27年 (1894年) の大火により建物等は現存しないそうです。奥の石碑は明治天皇御小休所碑でした。

脇本陣跡と書かれた石碑がありました。クリーニング屋さんになっていました。

馬の侵入を防ぐために設けられたという七曲がりと呼ばれるエリアに入ってきました。かなりの急カーブが見えます。

道が大きく湾曲しています。枡形に似ていますね。人為的なものというのが面白いです。

「旅館 庭田屋」という看板の掛かった歴史のありそうな建物が気になりました。旅館としてはもう営業している雰囲気がありません。後で調べたところ、なんと映画寅さんのロケに使われた事がある建物とのことです。

趣ある建物が緩やかに曲がった街道に並んでいて良い長めです。なお、この先の小さな交差点から与川道 (よがわみち) という中山道の迂回路が南東方向に伸びています。与川道は中山道が木曽川の氾濫で通れなくなった際などに利用されていた迂回路で、次の三留野 (みどの) 宿で合流します。現在もハイキングコースとして歩くことができるそうです。

野尻宿 (40/69) ▶︎ 三留野宿 (41/69)

江戸から77里 (約302.4km) の下在郷一里塚跡に到着しました。右手が一里塚跡の石碑で、左は・・・「西國五十二番」でしょうか。西国三十三所の拡張版?

一里塚跡碑正面。下在郷一里塚跡と彫られています。

中山道はここで直角に曲がります。

中山道が中央本線の線路に迫りました。ちょうど中津川行の普通列車がやってきました。中央本線の蔵本駅から十二兼駅の間は再び単線区間です。

新し目な案内板がありました。地図上の左手から右手に進んでいることになります。

案内板のすぐ右手には馬頭観音がたくさん並んでいました。南無阿弥陀仏と書かれた石碑も混じっていました。

案内板と照らし合わせると、これが妻神社 (さいのかみしゃ) のようです。村人が集落の入口に祀って外からの悪い病気を遮ることが願われているそうです。コロナウイルスは・・・身体から追い払ったはず・・・。

大きな家の縁側の前を通っていきます。道路の端いっぱいから広角レンズで撮ったため実物よりもだいぶ広そうに写っていますが、相当狭いです。

旧第3仲仙道踏切という踏切がありました。野尻宿の手前は第12仲仙道踏切だったので、次は13かなと思ったのですが、経路変更などがあったのかもしれません。

長野行の特急しなの5号が勢いよく通過していきました。

江戸時代の中山道はここから左手に伸びていましたが、廃道になっているため舗装路のほうを進むべきです。しかしどうしても気になった私は左手へ・・・。なお、結論から言うと歩けるかどうかかなりギリギリなラインだったことと、廃道を抜けたあとも歩道がないため、このページを参考に歩かれる方は舗装路を進むことを強くお勧めします。廃道は勝井坂、シラナミ坂、シラナギ坂など色々な呼び方で呼ばれています。

勝井坂を上っていきます。ほとんど人が歩いた形跡を見つけられません。

落石ガードがありました。落石や雪崩から下の道路や線路を守るためと思われます。

沢が道を横切っています。だいぶ怪しくなってきました。

沢の上流方向を見上げたところ。水量が多いときはここを渡るのは危険そうです。

カメラが傾いているのではなく、地面が勾配になっています。下草がだいぶ伸びてきて、道が消えかかっています。とても歩きづらいです。

下草が減ってきて、杉並木が見えてきました。

とても大きな岩が転がっていました。この裏手には石垣があり、茶屋があったそうです。

国道19号の野尻トンネルの入口に出てきました。写真は来た道を振り返ったところです。
江戸時代の中山道はここからまた線路側へ下っていくようですが、完全に藪に覆われてしまいとても歩けるようには見えませんでした。仕方なく国道沿いを歩いていきます。ただし歩道がほとんどなくなかなか神経を使いました。前述の通り、中山道を歩かれる方はこの廃道には入らず線路沿いの舗装路をそのまま進むことを強くお勧めします。

道端にぽつんと常夜燈がありました。この先街道外れにある木曽熊野神社関連のものかもしれません。

国道19号に戻ってきたところで、中山道は国道と中央本線の向こう側に続きますが、横断歩道はあっても踏切はありません (150mほど北にいけば第15仲仙道踏切があります)。しかしここにはウルトラ C なショートカットトンネルがあります。

な、なんだこりゃ!トンネルにどう見ても仮設の歩道が後付けされています。

工事現場の足場のような通路を下りていくと、そこは水路トンネルでした。勢いよく水が流れていて、その上を仮設の歩道が通っています。足場の真下も水が流れています。

「一般国道19号 十二兼3号水路函渠」とあります。水路函渠 (かんきょ) とは箱型の水路トンネルのことです。人間用に作られたトンネルではないことは明らかでしょう。

身を少し屈めながら通り抜け、振り返ったところ。電球はありますがなかなか暗かったです。水量が多かったり暗かったりで危険を感じたら迷わず第15仲仙道踏切に迂回することをお勧めします。300m程度の遠回りで済みます。

街道から十二兼駅の入口が伸びていて、階段を上った先に駅舎がありました。中央本線の倉本からの単線区間はここまでで、ここから先終点名古屋まではずっと複線です。

江戸から78里の十二兼一里塚跡はこのあたりですが、石碑は国道沿い置かれているそうです。右手の信号機の奥にあるみたいですが、旧道からは見ることができませんでした。

木曽川が間近に迫る場所がありました。とても急流になっています。寝覚の床と似た雰囲気だなと感じたのですが、ここが南寝覚と呼ばれていることを後で知りました。

明治天皇御小休所碑がありました。道中、ここにあった民家で休憩されたそうです。ちょうどベンチが置かれており、私もここで一休みしました。

明治天皇中川原御膳水と書かれた石碑もありました。

再び国道19号に合流して狭い谷を進んでいきます。右手も左手も急な斜面。木曽川も間近に迫ります。

少し引いた感じでもう一枚。これぞ木曽路といった眺めです。江戸時代のこのあたりは馬に乗るのも難しいほど狭く険しく危険な道だったそうです。

木曽川上流方面を振り返ってみました。大きな岩がごろごろしていて、下流域では見られない情景です。

江戸から79里の金知屋一里塚跡はこのあたりにあったそうですが、石碑は左手の線路の奥にあるとのことで、一般人のアプローチはほとんど不可能のようです。当然国道からも見ることができません。

三留野 (みどの) 宿に到着しました。中山道代替路の与川道ともここで合流しました。

だいぶ坂道を上ったと思ったら、こんどは下り坂です。奥には美しい山並みが見えました。

三留野宿脇本陣と書かれた案内板がありました。明治14年 (1881年) の大火で建物は焼失してしまったとのことです。

三留野宿本陣跡に到着しました。建物は脇本陣同様明治14年 (1881年) の大火で消失してしまったそうですが、明治天皇行在所記念碑と書かれた石碑がありました。明治天皇がこの地に行幸されたのは大火の前年の明治13年 (1880年) で、ギリギリセーフでした。

本陣の隣にある歴史のありそうな建物は町家を改装したゲストハウスの柏屋ですが、訪問時は営業していないようでした。

宿場内で街道が一部階段になっていました。下に見える道に至ります。

ここで一旦中山道ウォーキングを中断、国道まで下りていき、「道のオアシス 三留野宿」でお昼ご飯にしました。

お店のご主人が中山道や与川道についてあれこれ詳しく教えてくれました。貴重な調査資料なども拝見させていただきました。油揚げがたっぷり入ったカレーうどんも美味しかったです。

南木曽町博物館名誉館長による中山道の経路の変遷図。妻籠宿から男滝女滝のあたりまでの間はあちこち経路が変わっていることがわかります。また与川道の位置関係も分かります。

再び中山道に戻ってきました。三留野宿を後にし、妻籠 (つまご) 宿方面に進みます。

三留野宿 (41/69) ▶︎ 妻籠宿 (42/69)

中山道の案内板に誘われてすごい脇道に案内されました。民家の裏手にお邪魔します。

三留野宿から妻籠宿、大妻籠までの道順が書かれた案内板がありました。今晩の目的地は予約している大妻籠です。南木曽駅から先は半年前にハイキングで歩いたので、再訪になります。

線路の先に大きな吊り橋が見えました。水力発電開発のために建設された桃介橋という橋で、一度老朽化したものの人が歩けるように復元され維持管理されているそうです。国の重要文化財にも登録されているとのこと。

園原先生碑と書かれた案内板がありました。右手奥に見える石碑がそれのようです。園原旧富先生は江戸中期に活躍された神学者・国学者とのことです。道中にも目にした木曽古道の調査をまとめた木曾古道記を著したことでも有名なお方のようです。

南木曽 (なぎそ) 駅に到着しました。駅舎は西側にあります。ホームがとても長く、一部の特急列車はこの駅にも停車するため、観光にも便利です。

中央本線のトンネルの上にやってきました。中央本線は馬籠峠を通らず木曽川沿いを進んで行きます。

駅からの道に合流、SL 公園に到着しました。ここから先は半年前の再訪です。昭和15年 (1940年) に日立製作所笠戸工場で製造されたD51形351号機が鎮座しています。北陸地方で活躍したあと晩年に中央本線に移籍、昭和49年 (1974年) まで活躍したそうです。なお、この場所は先ほど超えたトンネルが出来る前の旧線があった場所のようです。

木曽義仲のかぶと観音に到着しました。参勤交代の大名も必ず足を止めてお参りしたそうです。

境内でぐるぐる回る水車。この先の宿場にもいくつか水車があったはず。

せん澤と書かれた大きな道標がありました。「左 なぎそ駅 下り 国道へ 右 妻籠宿へ」とあります。せん澤 (沢) はここを流れている沢の名前のようです。

江戸から80里 (314.2km) の上久保 (うわくぼ) 一里塚に到着しました。両塚が残っている貴重な一里塚です。

案内板には江戸から数えて七十八里目とありますが、80里のはずです。

東塚には階段があったので上ってみましたが、特に目立ったものはありませんでした。

また道標がありました。のどかな景色の中を進んでいきます。

蛇石に到着しました。特徴的な丸っこい石が鎮座しています。鬼殺隊が修行に使うのに良さげな感じです。

案内板では石そのものには触れられず、代わりに初期の中山道はここから沢沿いに続いていて、元禄16年 (1703年) に現在の経路に変わったことが記されていました。 

妻籠城址の案内板に到着しました。ここから妻籠城址の城山に上ることができます。半年前のハイキングではスキップしましたが、今日は時間に余裕もあるので上ってみたいと思います。

土橋 (どばし) を通過します。江戸時代は木製の橋が掛かっていて、明治期に土橋になったようです。

堀切を通過します。敵の侵入を遅らせることを期待して道幅が狭くなっています。

急に視界が開け、大きな石碑と対面。しかし何と書いてあるかは読み取れませんでした。

妻籠城址と書かれた昭和41年 (1966年) 製の案内板がありました。いつ誰によって築かれたのか明らかでないそうですが、少なくとも戦国時代には木曽氏の勢力下で使われていたようです。なお、この案内板が建っている広場一体は主郭と呼ぶそうです。

令和3年 (2021年) に整備した旨の看板がありました。

左手に御嶽山大権現と書かれた石碑、右手に八海山神社と書かれた石碑、奥は休憩スペース。

休憩ベンチがあり、展望台のようになっていました。眼下に妻籠宿が見えます。

妻籠城址から見た妻籠宿の様子。宿場の右手を木曽川支流の蘭川 (あららぎがわ) と国道19号から分岐した国道256号が走っています。この中央やや右手奥が明日越える予定の馬籠峠です。

「林?紀念之碑」でしょうか、ちょっと読みづらいです。

下りは別ルートで下りてみましたが、すぐに合流しました。

中山道に戻って妻籠宿に進んでいきます。すでに雰囲気満点です。

高札場跡に到着しました。復元されたものですが、札の内容は江戸時代のものとのことです。内容は「徒党・逃散禁制札」「キリシタン禁制札」「人馬賃銭札」「親子兄弟札」「毒薬・偽金禁制札」「火付け・火事場禁制札」「駄賃賃銭相定札」とのことです。

水車がお出迎え。観光客がどっと増えました。

街道沿いの水車は旅情を感じられるのでつい写真を撮りたくなります。

中心街に進んでいきます。古い町並みと迫る山肌がとてもマッチします。重要伝統的建造物群保存地区 (重伝建地区) として建物の保存や復元が実施され、電柱も地中化されて美しい街並みが維持管理されています。

民家のほかお食事処、土産物屋、高級旅館などが並びます。

脇本陣に到着、右手に大きな蔵があります。

ここ脇本陣奥谷は南木曽町博物館として見学できるようになっています。半年前の訪問時は早朝の通過だったので開いていませんでしたが、今日はたっぷり時間があるのでお邪魔します。

玄関の様子。明治天皇の明治13年 (1880年) の行幸の際はこの脇本陣に宿泊されたそうです。この建物は行幸前年の明治12年に再建されたもので、檜 (ヒノキ) をふんだんに使って建てられているそうです。案内の方と中山道トークに花を咲かせつつ宿場や建物の歴史や当時の生活様式などを学びました。

この脇本陣では日本酒造りも営まれていたそうです。その名も鷺娘 (さぎむすめ)。

脇本陣から資料館へ。様々な資料が展示されています。ほかにも写真が撮れないエリアがいくつかありました。

江戸時代の妻籠宿の再現模型。位置番手前に高札場があり、右手中央の張り出した敷地が現在いる脇本陣、そして左手中央からやや奥に本陣という構成です。

先ほど上ってきた妻籠城址も再現されていました。安土桃山時代の天正12年 (1584年) に徳川軍と秀吉方につく木曾義昌軍の戦があり、木曾義昌軍が徳川軍の猛攻をしのぎ撃退に成功したそうです。

巨大なのこぎりが展示されていました。木材の切り出しに使っていたそうです。

木材運搬の様子を示した模型がありました。足場を組むだけでも相当な労力が掛かっているように思えます。

資料館を抜け、本陣にもお邪魔することにしました。立派な門をくぐってお邪魔します。

本陣の建物は役目を終えた明治20年代に取り壊されましたが、平成7年 (1995年) に間取り図から復元されました。左手から建物の中に上がっていきます。

雛人形などの沢山の人形が展示されていました。

時代劇に出てくるような立派なタンスがありました。右2つのタンスは江戸時代から代々使われてきたものだそうです。

雪隠 (せっちん)、トイレです。

湯殿、なかなかコンパクトです。

上段間、殿様が座るところです。

美しい中庭がありました。

とても大きな長持がありました。衣類や布団を格納するために用いるものです。あとは、曲者が来たとき隠れたり・・・?

敷台、偉い人はこちらから上がっていたようです。

本陣の見学を終え宿場の町並みに戻ってきました。枡形を通り「寺下の町並み」に到着。立派なうだつが上がっている右手の建物は「松代屋」という1804年創業の大変歴史ある旅籠屋さん。今回は予約が取れませんでしたが、いつか泊まってみたいものです。

通ってきた細い道を振り返ったところ。江戸時代の雰囲気を一番残しているところかもしれません。

インバンド団体客が通り過ぎていき、再び美しい景色が眼の前に広がりました。半年前にもここからの眺めに感動したのですが、やっぱりこの角度でシャッターを切りたくなります。

(2022年11月訪問時の写真)
このときは割と朝早くに通過したのでとても静かな雰囲気でした。

上嵯峨屋という旅籠は中を見学できるようになっています。庶民向けの旅籠屋の作りとのことです。

寺下の町並みを振り返ったところ。この区間は一般車通行禁止になっており、車を気にせず宿場町歩きができます。

このあたりが妻籠宿の南端部です。ここから先は観光客がぐっと少なくなります。

妻籠宿 (42/69) ▶︎ 大妻籠 間の宿 (42.5/69)

石柱道標と書かれた案内板。この奥の民家の庭先にあるそうですが視認できませんでした。ここは飯田方面に向かう飯田街道 (大平街道) との追分でもあるそうです。

大妻橋で蘭川 (あららぎがわ) を渡ります。下流方面を眺めたところ。大きな岩がごろごろしていて、流れも急です。この先で木曽川に合流します。

民家の玄関横に大きな弘法大師の記念碑がありました。

大妻籠に到着しました。妻籠宿と馬籠宿の間を補完し、また飯田街道との分岐地点にも近いこともあり間宿の役割を担った集落です。

「中山道 大妻籠」と書かれた石碑がありました。道標にもなっているようですが、文字がちょっと読みづらいです。

水車が回っています。妻籠宿を出てから上り坂が続いてきましたが、大妻籠の中もほとんどが上り坂です。標高は500mぐらいになります。明日上る馬籠峠は790mで、まだまだ道半ばです。

手前から「近江屋」「まるや」「つたむらや」と並んでいます。「まるや」は寛政元年 (1789年) 創業の老舗旅籠屋さんです。建物は明治期のものだそうです。

一番奥の「つたむらや」が今回予約していたお宿です。養蚕農家だった建物を民宿に改装して営業しています。とても立派なうだつが上がっています。

逆側からもう一枚。街道に溶け込むように佇んでいます。

先着順で好きな部屋を選ぶことができる仕組みになっていました。街道を見下ろせる2Fのお部屋をチョイスしました。

廊下から街道を見下ろすことができます。半年前に通った際はここに布団が干されていたのを覚えています。

水回りは2001年にリフォームされ、とても清潔感ある感じです。檜の湯船にゆったり浸かって疲れを癒やすことができました。

1F玄関前の囲炉裏。奥のふすまを開けた先に食事が提供される広間があります。

つたむらやの夕餉。自家栽培のご飯 (食前酒のどぶろくも!)、お茶、近くで採れた山菜、岩魚などこの土地ならではの食材が並びます。とても美味しかったです。

つたむらやの夕景。この先は峠道、宿泊しないと味わえない景色です。ちなみに入口の扉がとても低いので1度盛大に頭をぶつけました。

続き中山道六十九次 (10/16) 大妻籠→恵那