中山道六十九次 (1/16) 日本橋→宮原

東京の日本橋から旧中山道経由で京都の三条大橋を目指すウォーキングの1日目です。全行程のリンクと注意事項、アドバイスなどはこちらをご覧ください

概要

記録

日本橋 ▶︎ 板橋宿 (1/69)

午前 5:20 に日本橋にやってきました。12月なのでまだ真っ暗です。東海道と中山道の起点がここ日本橋で、共に京都三条大橋まで通じていますが、その少し手前にある滋賀県の草津宿で合流することになります。

最初にここに橋が架けられたのは慶長8年 (1603年)、現在の日本橋は、明治44年 (1911年) に架け直されたものとのことです。

麒麟像が橋を見守っています。

先ほどの解説版でも紹介があった道路元標の複製が北詰にあります。これが日本の全ての道路の起点ということになります。

昌平橋で神田川を渡ります。左手は中央線、右手は総武線の線路です。

街道整備の際に1里 (約4km) ごとに設置された一里塚ですが、日本橋から最初の一里塚があった場所がここ追分一里塚。追分というのは道と道の分岐・合流点を意味していて、ここは中山道と日光御成道との分かれ道でもあったとのことです。国道17号はちょうどここで90度折れ曲がっています。

だいぶ明るくなってきて、巣鴨に入りました。ここには最後の将軍徳川慶喜が大政奉還後の明治30年 (1897年) から4年間ここに屋敷を構えていたとのことです。現在の山手線が屋敷のすぐ横を通ることになり、騒音を嫌ってこの地を離れたそうです。

巣鴨の賑やかな商店街は実は旧中山道だったとは、実際歩いてみるまで知りませんでした。昔ここで赤パンツを買った記憶があります。

この標識で、ようやく旧街道を歩いているんだという実感が湧いてきました。英語表記が Kyunakasendo Ave. となっているのがちょっと興味深いです。

まもなく平尾追分というところで板橋宿場散歩という石造の標柱を発見しました。国道17号を横切って直進するルートが示されています。

川越街道との分岐点である平尾追分に到着、旧中山道の標識や板橋宿を示すゲートがありました。

旧中山道と、現在の中山道の役割を担う国道17号のルートの違いがよく分かる案内地図です。

よく見ると中山道の全ての宿場と日本橋・三条大橋が小さく並べて紹介されていました。

お寺や本陣跡などのスポットが案内されていました。

板橋宿は江戸方から平尾宿、仲宿、上宿の3つのエリアがあり、ここから仲宿エリアになるようです。

車が行き来するにはちょっと狭くて線形もバシッと一直線ではないあたりに旧街道らしさを感じることができます。

地名の由来になっている橋「板橋」に到着しました。

板橋の由来を解説している板がありました。江戸時代は太鼓状の木製の橋だったようです。現在の橋は昭和47年 (1972年) 製とのことです。

石神井川は改修工事により川岸がしっかり固められています。

板橋を渡って振り返ったところ。ここから北が上宿になるそうです。

本町にぎわい広場という公園に到着しました。櫓の形をした倉庫?がいい味を出しています。

上宿を示す石碑とその解説版が立っていました。平成14年 (2002年) に設置された比較的新しいもののようです。

板橋宿 (1/69) ▶︎ 蕨宿 (2/69)

縁切榎 (えんきりえのき) というちょっと物騒な名前のスポットですが、現代では厄災から縁を切るというポジティブな願いを込めるスポットのようです。ただし江戸時代は縁が短くなることを恐れて皇女和宮が通る際はここを迂回して板橋宿に入ったとのことです。

環七通りの下をくぐりぬけるためとても低いところに信号機があってびっくりしました。

日本橋から3里 (約11.8km) の志村一里塚に到着しました。道路の両脇に土を盛って木を植えた本来の形をした一里塚がしっかり立っています。この塚は近代化された幹線道路の脇にありながら、江戸時代以来両脇の塚が形を保って維持されている大変貴重な一里塚です。写真は南側にある南塚です。

南塚を裏側からも眺めてみました。

横断歩道を渡って北塚にも来てみました。石積みでガードされていて、大事に守られてきたことがわかります。

北塚側から南塚とセットで写してみました。

「富士・大山道の道標と庚申塔」という案内看板と、それらしき石碑が道端に置かれていました。富士山や神奈川の大山に向かう道が中山道から分岐していたそうです。庚申塔 (こうしんとう) は江戸時代に建てるのがブームになったお守り的な石碑ですが、このように道標機能も追加したバージョンもあるとは面白いものです。

清水坂を下って戸田方面に向かいます。昔は結構な急坂だったようですが、三田線の開通などによってあまり原形をとどめていないようです。

環八通りを抜けて戸田橋方面に向かいます。

現代の中山道は国道17号が担っています。私の自宅の近くに環八が通っているのですが、ここまで一本で繋がっていると思うと感慨深いです。

戸田橋で荒川を渡り、埼玉県に入ります。

戸田橋の横を東北新幹線が抜けて行きました。200系復刻カラー?

西側は遠くまでよく見渡せます。

これが戸田渡船場跡の碑のようですが、遠回りしないと見に行けない所にあったので諦めました。

旧中山道を示す道標を確認し、進んでいきます。

川岸ミニパークという小さな公園に中山道の案内板がありました。菖蒲川 (しょうぶがわ) と交差するあたりはすでに道順が失われているとのことで、YAMAP の街道マップでも住宅地を細かく曲がる変則的なルートになっています。

この橋で菖蒲川を渡ります。奥では物流倉庫の建設が行われていました。

国道17号から分岐して蕨宿に入っていきます。

蕨宿界隈の史跡を解説した案内板がありました。神社やお寺は街道から少し離れたところに点在しているようです。

蕨市立民族資料館分館は、明治20年 (1887年) に建てられた織物商の建物を利用しているそうです。

道端に道路元標を見つけました。蕨町の道路の起点を示すもの。

蕨市立歴史民俗資料館本館に到着、江戸時代の蕨宿の様子をうかがえる資料が多数展示されています。

蕨宿本陣跡に到着。残念ながら建物は現存しません。

お腹が空いてきたので近くにあったかつやでカツカレーを食べました。

蕨宿の京口付近に中山道の名前が入った公園があり、蕨宿の解説とガイドマップが載った案内板もありました。

こうして見ると京都は途方もなく遠いところに感じます。

国道17号との交差点に蕨宿の石碑がありました。

蕨宿一番地と書かれた標識を見つけました。一番地というのは、ここから土地が割り振られていったということでしょうか。なお、隣の案内板らしき板には何も書かれていませんが、以前はすぐ横にかかる境橋の解説が書かれていたようです。

蕨宿 (2/69) ▶︎ 浦和宿 (3/69)

日本橋から5里 (約19.6km) の辻の一里塚の跡に到着しました。公園の隅に大きな石碑が建っていました。

ぼけっと歩いていたら直進してしまいそうなところに中山道は左折との気の利いた案内板がありました。

焼米坂の石碑を通過し、浦和宿に入っていきます。なお、地図で見るとこの坂の下には武蔵野線のトンネルがあるようです。

調 (つき) 神社に寄り道してみることにしました。あとで出たときに気づいたのですが、ここは裏の参道だった模様です。

社殿は参拝客で賑わっていました。私も道中の無事を祈願しました。

調物 (貢物) 搬入の妨げになるので参道に鳥居がないそうで、たしかにメインの参道にはありませんでした。またこの由緒にはありませんが、調を「つき」と読むことから「月」にかけて兎の神社でもあるそうです。

浦和宿の本陣跡は街道から少し脇に入った仲町公園というところにありました。明治天皇が大宮の氷川神社に行幸された際の行在所でもあったそうで、石碑も建てられていました。

本陣の建物は明治期に取り壊されてしまいましたが、表門は緑区に移設されて現存しているとのことです。

浦和宿 (3/69) ▶︎ 大宮宿 (4/69)

一本杉の仇討ち跡という案内板を見つけました。喧嘩の斬り合いで命を落としたほうの息子が動静を聞きつけここにあった一本杉で待ち伏せ、みごと仇討ちを成し遂げたと語り継がれている場所とのことです。

しばらく東北本線に並行する大きな県道沿いを歩き、さいたま新都心駅の近くで久々に中山道のワードに触れられる看板を目にしました。

大宮宿 (4/69) ▶︎ 宮原駅

沢山の人で賑わう大宮駅周辺を抜け、安政7年 (1860年) に建てられたらしい石碑に到着しました。神奈川の大山と青梅の御嶽山への登拝者向けの道を示しているそうです。

160年以上前に建てられたとされる道標。てっぺんはだいぶ年季が入っている感じですが、表面はとても綺麗にみえます。

東大成の庚申塔に到着しました。小さな鳥居も建ててあり、豪華仕様に感じます。

この庚申塔は元禄10年 (1697年) に建てられたとのことです。300年以上経った現代にも信仰が受け継がれているのですね。

宮原駅入口交差点に到着、疲れてきたのでここで中山道から離脱して帰路に就くことにしました。

宮原駅から高崎線に乗って帰宅しました。

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